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特集●都市型居住と幕張方式
――幕張ベイタウンが目指す第三の道


■インタビュー■
「都市デザイン」の空白を埋めた幕張方式
曽根幸一■曽根幸一・環境設計研究所主宰、芝浦工業大学教授
聞き手■桂木行人(本誌)


「幕張方式」の本質とは何だったのか。
7名の事業調整コーディネーター(計画設計調整者)の1人として主導的役割を担ってきた曽根幸一氏に話を聞く。



8事業者グループに7人のコーディネーター

──幕張ベイタウンは、建築家と都市計画家がプロジェクトを組んで「住宅づくりは街づくり」という考えを推進できたまれなプロジェクトでした。
幕張ベイタウン年表

写真曽根■渡辺、蓑原の両先生が、千葉県企業庁側でマスタープランをつくられ、すでにベイタウンを沿道型の建築で作るというイメージを持っていた。そこへ私と大村虔一さんが呼ばれて、この事業を10年かけて実現していきたいから、実務的な面に力を貸してくれといわれた。そこで、私が都市デザイン、大村氏が事業化という役割で、具体的な仕掛けを、つまりガイドラインと事業を運用するための調整の仕組みを創ることに取り組んだわけです。
 幸いなことにベイタウンの事業には、有力なディベロッパーのほとんどが参加した。そこで、各事業グループに1人ずつ事業調整のコーディネーター(計画設計調整者)を付けようということになった。人選には、当時50代半ば前後の、酸いも甘いも噛み分けた人たちを選んだ。「俺にやらせろ」などとしゃしゃり出るようなこともなく、コーディネートに徹せられる人材こそ必要だと思われたからです。
 彼らは全員、都市デザインの「理念」をきちんと理解できる人たちであり、また言い換えれば、日本のタウンスケープに批判的な見識を持っている人たちでした。

──企業庁はデザイン重視の街づくりをしようということで、都市デザインガイドラインの運用にはかなり力をいれました。

曽根■いま全国約2500市町村の1割程度が、景観行政のためのガイドラインを持っています。しかし大抵の場合、マニュアル的な刷り物は作るが、実際に運用をしていくための技術やノウハウがすっぽりと欠落している。それだけでなく、ガイドライン運用のための予算がまったく付かないというのが日本の現状です。
 厳しい言い方ですが、日本人は、「環境」というフィジカルなものへの意識が希薄です。とくに行政、官僚にまず「街のイメージ」の明確な政策が不在です。トータルなビジョンなしに、戦後、建築基準法に始まり、特定街区、高度利用、地区計画といった制度を場当たり的に作ってきた。こうした法制システムが、逆にビジョンの存立を阻害してきた面もあると思っています。



調整コストをだれが負担するか

──長期にわたる街づくりにかかわるためには調整者へのコストが発生します。

曽根■ガイドライン運用、つまり事業者間調整のコスト負担については、企業庁が半分を負担し、残り半分はディベロッパーというのが筋でしょうが、ほとんど事業者に負担いただいた。この点では、その包容力には大変感謝している。コントロールされる側であるところのディベロッパー自身に費用を負担いただくというのは、本来は筋違いと思われるのだが、当時はまだ高度成長の余韻もあったこと、そして何より我々の抱いていた理念に共鳴をいただけたからです。
 われわれコーディネーターも、「都市デザイン」という役割、職能を、どうしても日本に定着させるべきだという信念があって、かなり踏ん張った。調整担当者がそれぞれの事業者グループに張り付くことができた。
 壁の色、屋根の形、建物の配置といった、各街区デザインにおけるガイドラインの「運用」のために、コストを負担するという試みを導入したのが、幕張方式だろうと思います。
 この仕組みに理解、賛同いただき、また今日に至るまで十数年にわたって費用を担保し続けていただいたこと、これが本当に意義の深いものとなった。この仕組みによって、コーディネーターが、非常に精力的に時間と労力を注いで活動することができた。不況のなかで多くの住宅地計画が壊滅的な状況というなかで、よくぞここまで続けているというのが、幕張ベイタウンに対する実感です。

──コーディネーターはそれぞれ建築家であったり都市計画の専門家ですが、その専門性と調整者という役割とは矛盾しないのですか?

曽根■この7人は、本業は建築家であったり、都市計画家であったりするのですが、幕張ベイタウンのプロジェクトでは、それぞれがコーディネーターという役割をメインにして活動しています。
 事業者グループ担当のコーディネーターの役割は、主に2つある。まず内部の調整、これは建築家の選定や、建築家と事業者とのコーディネートなど。それから外部との調整、つまり各事業者間との相互調整です。
 例えば、1つの街区の集合住宅は1つの事業者が担当するが、建築家は2名から多いところでは7名。東側はA建築家がやり、南側はB氏、中庭はC氏、という具合です。理由は明快で、通常の街を考えたときに、1人の建築家がすべての家を設計するなどということはありえない、できるだけ普通の街のデザイン構成に近づけるという意図からです。
 かくして街区間だけでなく、街区の内部でも調整が必要となり、当然ながら大変な手間となる。たとえば、建物の基本配置プランだけに12年間もかけた街区もある。10種類以上もの配置プランの絵を書いている。もちろんこの段階も建築家は意見を出すが、彼らの本当の出番は最終案が決まった段階からで、ようやく個別の建築設計に入っていく。こういう努力は、これまでの日本では、まったくやられてきていません。



模型を前に具体的な調整

──その様な調整の権限はどう保証されていたのですか?

曽根■この調整=コーディネートの役割は、渡辺・蓑原の両先生が主導する計画デザイン会議が果たした。会議のテーマが、どこか1つの街区のものであったとしても、他の街区の担当者が全員出席しなければならないシステムです。
 計画デザイン会議は、2人の先生と、7人の各事業者担当コーディネーター、千葉県企業庁と千葉市の担当者で構成されました。また時には複数の建築家、および事業者主体の担当者も出席した。このメンバーが揃うことが、合議成立の条件で、ここで決まったことは、各事業者の調整担当、事業者、建築家は遵守しなければなりません。
 この仕組みは、1つの都市を創っていく仕組みとしては、理想的なものといえます。但し住民はいないのですが……。社会経済的な条件は厳しくなったものの、この仕組み自体は、今なお維持され続けているのです。
 最初は計画デザイン会議だけでしたが、意思決定をスムースに行うために、まず準備会議(都市デザインワークショップ)を行い、その後、千葉県で正式な会議を開くというシステムに変わっています。

──具体的な計画デザイン会議はどう運営されたのですか?

曽根■よくある街づくりの委員会のようなものでは、形ばかりの抽象的な議論を交わしても、何も始まらない。ここでは、実際の模型を作って議論を重ねるということをやります。最初の構想の段階から始まって、議論を重ねるごとに、リアルな模型や絵を何回も作り直して、「ここまでの議論では、こういう形になるということですね。よろしいですね」という具体的な作業に落とし込んでいかない限り、本当の意味での調整はできない。
 しかも、議論には、各街区を担当する別々の建築家の方々もかかわるから、「これは違うね」となれば、その場で絵を画いていく。事業者担当の方とも相談して次回の模型に反映する。この繰り返しを経て、最終的な全体像に落とし込んでいく。かなり時間がかかります。時にはドラスティックな変更も辞さない。こんな面倒な作業に時間と労力が割けたのも、調整という作業が担保されていたからです。

──模型を前にして各街区の担当者が調整するというのは大変な作業ですが確実ですね。

曽根■日本では都市計画コンサルという職業と、建築家という職業は確立している。計画コンサルは、官公庁や全国の自治体からさまざまな都市計画の委託研究を受注してきたし、建築家は主に民間から仕事を請け負ってきた。しかし具体的な都市をつくることを考えると日本ではこの2つの職業は、著しく両極に偏っていて、その中間がすっぱり抜けている。じつは「都市デザイン」という領域が、この中間にあるはずなのだが、日本ではこの部分がきわめて弱く、職能としても成立していない。主要な役割は、「調整=コーディネート」という最も目に見えない部分だが、ここにお金を出そうという主体がないので、職業として定着しない。
 この空白の都市デザインの部分をなりたたせたのが、幕張ベイタウンの最も本質的な部分だといえます。前述したように、都市計画、街づくりのガイドラインをいくら作成したところで、現実に運用を支えるこの中間部分なくしては、フィジカルな面では都市計画など不毛に近いです。



街区計画も調整者も不在な都市開発


──いまやベイタウンには1万人以上の住民が住んでいます。これから調整会議の役割は?

曽根■この合議体の最後の宿題は、すでに1万人以上おられる住民の方々を、どのようにこのシステムに参加していただくか、この仕組みづくりが、われわれに課せられた最後の宿題だと思っています。時代は市民参加、NPOといった流れに確実に向かっており、都市計画コンサルも、役所の方ばかりを向く時代ではなくなっている。ここに新しい仕組みを、幕張方式から日本中に発信していける、そんな契機が来ていると思います。
 具体的には、まずどこか空き店鋪かスペース、あるいはインターネットで、時々刻々と変わる計画を常時展示して、住民の方にこれからの街の変化をみせていくことが必要だと感じます。しかし、現実には、市民の側もまだ「要求型」に留まってしまっていて、「参加型」の仕組みや意識がまだ芽生えてきていない。1つにはやはり事業体からの情報提供、情報公開が不足していることが背景にあるのだと思います。
 例えば、コミュニティ・コアは、試行錯誤しながらも、参加型で何とかできた。
 参加型の課題として、市民の側に、情報・プレゼンテーションされたものの「見方」に熟達してもらうことも必要でしょう。例えば住民参加のワークショップを開催したとしても、近視眼的に自分の身の周りの便益だけに捕われがちな住民に対して、「こっちの方が、街全体が良くなり、住んでいる人全体にとっても、そしてひいてはあなた自身にとっても、結果的に付加価値が高まるでしょう」ということを、きちんと説明していける行司役がいなければ、効果が上がらない。
 この過程に参加していくことが本来は市民にとっての「住む」ということの醍醐味であるはずなのです。
 こういう仕組みを、一般市街地にも取り入れなければならないと思う。日本の街づくりを救うには、ともかく住民の皆さんの意識を早く変えてもらうことに尽きる。それができなければ、本当に百年かかっても「街」はできないという話になる。
 とにかく「街づくり」には抽象的な言葉の議論ではなく、手を動かした模型、絵、具体での調整が不可欠です。


そね・こういち●建築家、都市デザイナー。1936年生まれ。1968年に環境設計研究所(現、曽根幸一・環境設計研究所)を設立、主宰。その間、東京芸術大学建築学科講師、東京大学建築学科講師などを経て、1992年から芝浦工業大学システム工学部教授。1997年、幕張ベイタウン・パティオス11番街で建設業協会(BCS)賞、1999年幕張ベイタウン・パティオスでグッドデザイン賞・アーバンデザイン賞、2002年、マリーンデッキでグッドデザイン賞ほか、受賞歴多数

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