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特集●幕張IT都市への提言 future's vision-1

IT時代の都市のヴィジョン――生命と時間の視点から

伊藤俊治■美術評論家、多摩美術大学教授

 21世紀に入って都市は大きく生まれ変わろうとしている。20世紀的な都市の殻を脱ぎ捨て、その機能と意味をダイナミックに変えようとしている。その都市の変貌の最も大きな要因はやはり情報メディア技術の進展の加速化だろう。いわゆるIT革命による都市の変容についてはこれまでさまざまな形で語られてきた。近年でもブロードバンド、ユビキタス(いつでも、どこでも、誰でも)、ブルートゥース(無線インターネット)といった言葉が飛び交い、都市生活の未来がきらびやかに語られているが、そこには何か大切な視点が抜け落ちていないだろうか。
 いくら高速大容量のブロードバンド時代になろうと人が受けとめられる情報の量や質には限度があるし、どんなにユビキタス化が浸透し、いつでも、どこでも情報が得られるようになろうと、人の感覚や認知の仕組みとその場が共振しなければ意味がない。そこに欠けているのは情報をどのように生命化してゆくかという視点と、新しく生まれている時間の枠組みから情報を見てゆく視点ではないだろうか。
 ここではその2つの視点に絞り、IT時代の新しい都市のヴィジョンを再検討してゆくことにしたい。



情報メディア・ボディとしての地球
――循環系から神経系、そして免疫系へ


 振り返ってみれば20世紀は情報メデイアの世紀だった。次々と誕生し、広がってゆく情報メディアは社会の形態や構造を変えるだけでなく、個人生活のさまざまな側面を変容させていった。さらに情報メディア自体が絶え間のない変化と増殖を繰り返し、自律した運動を生み出すようにさえなる。だから映画やラジオ、テレビ、電話やコンピュータ・ネットワークといった情報メディアの歴史と未来を語ることは、地球全体の時間や空間の関係の変化をたどることであり、人間の感覚や知覚の変容を語ることでもあるのだ。
 このような事態はこうも言えるかもしれない。つまり19世紀末にはいくつかの神経節と循環器官しか持たなかった昆虫に似た情報メディア・ボディの地球が、20世紀末には高度な哺乳類のような血管や神経網のシステムを獲得していったのだと。
 さらに言えば地球の情報メディア・ボディは今や脳神経のシステムばかりではなく、免疫系のような仕組みを内包するようになっている。それは高度な有機体において、どの神経網も他の細胞と直接的に固く結びついているのと同じで、一つの神経系はあらゆる構成要素との緊密な相互依存性によって完成されているのである。


21世紀都市
――機械的メカニズムを超えた生命的ルールへ


 20世紀の都市の発展はまさに都市が生命化し、進化してゆくプロセスでもあった。ある意味で20世紀都市は新しい情報生命都市のヴィジョンを用意する母体のようなものだったのかもしれない。そして21世紀都市は機械的メカニズムを超えてゆく「生命のルール」のようなものに支配され始めている。21世紀都市を考える時のポイントはまずここにある。つまり多くの生命体は自己を多様化し、組織化し、自己の方向を自分で決めてゆく営みを行うが、実はそうした生命体の身振りは従来の機械的で工学的な都市のシステムではうまく説明できないものだった。
 また高次の生命活動には、外界の情報に自らを開き、それらに反応することで自己をゆるやかに変化させ、拡大再生産してゆこうとする開放系の技法が秘められている。そこでは自己と非自己は連続したまま区別されるという微妙なバランスが保持され、このバランスがくずれてしまうと生命体はたちまち死に向かうことになる。
 21世紀都市を考える時にもこの法則は見逃してはならない。このような自己を多様化し、組織化し、外部情報を取り込みながら内部変革を絶えず繰り返し、自己を動かしてゆくルールこそこれからの情報都市が身につけなくてはならないものだからだ。


時間概念の変容
――直線的な時間から放射状の時間へ


 考えてみれば20世紀都市は、生命・非生命を含めた世界を合理的なメカニズムでシュミレーションしようとしたが、結局、生命現象の核心に触れることはなかった。表面的な生命の模倣に終始し、合理的で効率的な秩序を常に超越してゆく生命というスーパーシステムに向き合うことはなかったのである。
 21世紀の情報都市が何よりも必要とするのはまさに生命という現象との直接的なコンタクトの仕組みなのではないだろうか。近代の合理主義や機能主義の思考が無意識的に封印してきたアニマ[生命の精]こそが、新しい都市に注ぎ込まれなくてはならない。都市を統合的な生命現象として生成させてゆく試みが、情報メディアを有機的に活用しながら始まらなくてはならないのだ。
 また21世紀都市はこれまでとは異なる時間の枠組みの中で展開されてゆくだろう。20世紀都市の枠組みを決定してきた直線的な時間の概念が大きく崩れ、放射状に生成する時間観が現れ始めている。つまり21世紀においては多様な時間の系が生まれているのだ。人間の身体と場所に密着した同期的な時間の枠組みは崩れ、時間の感覚はその場その場でコントロールされ、再構成される。
 21世紀都市におけるこうした時間の衝動は、一つの場所と一つの時間が対応していた20世紀的なライフスタイルを破綻させ、一つの場所は複数の時間と対応し、一つの時間は複数の場所と対応するという状況をつくりだしてゆく。我々が日常と考えていたフェイストウフェイスのリアルタイムのコミュニケーションは多様なコミュニケーションの特殊な一例のようなものとなってしまう。時間は放射状になり、どこでも、いつでも、起こりうるようになる。
 ある意味でそのことは時間と空間を一つのトータルなものとして捉える知覚の始まりなのかもしれない。時間と空間を分けようとしない知覚が都市の基層に滑り込み始めた。
 その時間と空間をリデザインする精神の技術に最も大きな影響力を与えているのが情報メディアなのではないだろうか。我々の生きているこの世界を時間的にも空間的にも認識し直す新しい力が、そこでは必要になってゆくだろう。


自己複製子=模伝子としての都市へ
――時と時を繋ぐ仕組みを組み込む


 これまでの表層的で人工的な情報都市の概念に生命と新しい時間の要素を取り込むことが求められている。このことは結局、21世紀の都市に、生命という情報システムを担う遺伝子のような、時と時を繋ぎ、編集してゆく仕組みを作ってゆかなければならないということではないだろうか。
 社会生物学者リチャード・ドーキンスは生命体の遺伝子を自己複製子とみなし、同時にこの遺伝子と対応する形で文化における自己複製子を模伝子と名づけた。そして生命体の形態が時間を超えて継承されることと、文化形態の伝達プロセスをなぞらえようとした。
 遺伝子による生命体の情報伝達は自然現象であり、人間の恣意性に委ねられるものでなかったが、近年では遺伝子操作のように自然の摂理にも人間が介入し、動植物の新種が生み出される事態が起きている。これとは逆に、人為的と思われてきた文化の形成や発展という現象にも、実は神秘的な生命現象を司る遺伝子のメカニズムに近いものが見られるというのである。
 また人間の脳が人工知能と本質的に異なるのは、自ら新しい思考モデルをつくりだし、それを改良したり、自己修復したりする自己組織化の機能を持つことだが、フリチョフ・カプラは文化そのものも、この自己組織化を行うと指摘している。原始的な生命体は無機物を取り込みながら個体を維持し、人間は文化を生み出しながら有機的な生命現象を維持してゆくというのだ。
 そしてこの模伝子的な働きを敷衍して考えてゆくなら、文化のみならず、都市もまた遺伝子現象とのアナロジーでとらえうるだろう。石を基盤にしたヨーロッパの都市づくりや、木を中心にしたアジアの都市づくりなどの例に見られるように、都市の成立には地理、気候、生活慣習、社会組織などのさまざまな要因が関わって来るが、最終的に実現される統合的な模伝子としての都市は驚くほど多様な個性を孕むことになる。
 21世紀の情報都市にはこの模伝子的な働きが多彩に組み込まれなければならないだろう。そうしなければ情報都市は均質化し、表層化し、そのエネルギーやダイナミズムを失ってしまう。


情報メディア環境を生きる
――受け身の外包から能動的なプロセスへ


 また現代の文化は、各時代の歴史的なパラダイムの蓄積の上に築かれていることを忘れてはならない。現代のパラダイムは古いパラダイムと衝突し、それを破壊することもあるが、そうした混乱が落ち着くと古いパラダイムを再び抱え込む、より高度で多層的なパラダイム構造があらわれてくる。パラダイムの進化はまるで脳が古い脳を保存しつつ、新しい脳を積み重ねてきたように、古脳と新脳を何層にも重ねつつ進行してゆくのだ。21世紀都市はこうした生命と時間の広大なパースペクティブを見極めながら新しい都市像を作ってゆかねばならない。
 情報メディアは我々を包み込み、変えてゆく大きな流れとなってしまった。情報メディアは我々の経験を構造化する装置であり、我々の経験は情報メディアによって可能になり、情報メディアとともに変化してゆく。いまやすべての情報メディアは政治的、経済的、心理的、道徳的、社会的な出来事や事象に深く浸透し、我々のまわりのどんな細部にも影響を及ぼし、変えてしまうばかりではなく、そのことによって我々の内部に特有の感覚の場をつくりだす。感覚の場が変わる時、我々の行為の仕方や世界の見方、身体そのものも変わってしまう。そこでは環境とは単なる受け身の外包ではなく、能動的なプロセスなのである。
 生命体は環境から働きかけられ、同時に環境に働きかけて、その相互作用のなかで自己を維持してゆく。ところが人間は道具を使い環境を作り替えてゆこうとする、生命体の最も進化した存在だった。そこでは人間は道具を介して環境と繋がっていた。しかしいまや環境そのものが道具となり、情報メディア化されている。大袈裟な言い方をすれば情報メディアが自己目的化し、それ自身として増殖してゆく。21世紀の人々はその世界の中で生き、その世界を環境として生活してゆかなければならない。


新しい情報都市のヴィジョン
――生命の身振り=共振する揺らぎに学ぶ


 「生命は誕生以来、複合化の作用を続けてきた。時間とともに各プロセスの複合化はさらに進み、この複合化が進化と歴史的発展の両方に作用している。そして大切なことは、この複合化の進展によって生命はより少ない物質でより多くのことができるようになるということである」(『生態建築論/物質と精神の架け橋』工藤国雄訳 彰国社)
 イタリアの建築家で、アメリカの砂漠に生命都市のモデルを作り続けているパオロ・ソレリはかつてそう言ったことがある。彼はそうした生命の複合性と縮小性の典型として人間の脳と超情報集積回路を想定していた。これからの情報社会にもこのことは同じように当てはまるかもしれない。
 地球には長い歴史のなかで無数の生命が存在し、それらは相互に関係しあい、絶妙なバランスを保ってきた。こうした共生関係は生命と非生命の間にもあり、無機物も生物との間に多様な協調関係を作り上げ、統一的な生命現象を生起させている。生命体は機械のようにそれぞれの部品が独立し、各々の役割を担い、特定のエネルギーによって活動するシステムではなく、カオスから立ち現れ、人知の及ばない精緻を究めたシステムを自発的に形作り、秩序を生成させ、またカオスへ還ってゆく現象なのだ。だから生命体にはあらゆるカオスが内在化され、時間の揺らぎを抱えつつ、一つの統一体が形成されている。そして大切なのはその揺らぎが共振してゆくということなのだ。
 新しい情報都市はそうした根源的な生命の身振りを学びながら、自らを活性化させてゆくことをさまざまなレベルで求められている。

いとう・としはる●1953年生まれ。写真論、現代美術論、都市デザイン論など、視覚・情報文化全般が専門。進化するメディアとテクノロジーの文脈から、大衆文化や未来の都市像を鋭く読み解く論考に定評がある。『ジオラマ論』で1987年サントリー学芸賞受賞。著書に『写真都市』『生体廃墟論』『ディスコミュニケーション』など多数

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