山形■2001年9月11日のニューヨークのテロは、人の住むコミュニティ間の衝突みたいなことが、非常に強く出たものだったと思います。ニューヨークというのは、軋轢とか衝突はあるにしても、一応タテマエとしてはいろんなコミュニティがかなり上手く共存している都市のひとつだったはずなんですよね。そこがああいう衝突の場になってしまうのは、皮肉というか、絶望的な感じがしました。
鷲田■もちろん現場に居ることなく映像として見たわけですが、メディアという装置の残酷さを、身につまされて感じましたね。
だれもが例外なしに、悲惨な出来事であったとか、許されざる出来事であったとか、正義への挑戦であったとか、ともかくテロ行為に関して無条件の糾弾の言葉を吐いている。でもその一方で、この背景にあることを考えなきゃいけないとも、同時に言っている。貧富の差、富の遍在といった異様な非対称、あるいはグローバルな文明や組織体と、ローカルな民族や文化との衝突という背景を考えないと、この問題は解けないんだ、と。
山形■「みんなこれを見なきゃダメです。見て考えなきゃダメなんです」と、まるで関心を持たなきゃ人間じゃないって口調で来ますよね。
鷲田■僕はそういうメディアの物言いに、言葉が浮ついているという印象を受けてしまう。そのことを、どうこう糾弾しようとかいう気持ちは毛頭なくって、むしろメディア社会というものに対して感じるのは、僕らの意識の皮膚みたいなものとのズレ、実際に何かを見たり聞いたり触れたりして感じるシンパシーのようなものとのズレが、剥きだしで突き付けられたような気がするんです。
山形■ある種、今の情報環境の面白いところは、情報があるだけでなくて、情報を知ることは良いことなんだというムードがあって、それでみんな安心して見続けてしまうという面はあるんでしょうね。
鷲田■身体の想像力がまったく働かなくなっていて、すべてが見ることの快楽みたいなものにズレていく。メディアの世界では、自分が身体ごと感応できないような情報というものに、みんなが触れるようになっていて、同時にそれに対するギャップも蔓延していて、感受性がついていけていないんですね。そういう意味で、人を残酷にする装置として今のメディアがあるような気がするんです。僕ら、ここまで冷たいまなざしを持つようになったのかと…。
山形■情報を受け止め続ければ続けるほど、できることとの落差がどんどん広がっていく。
結局、どこかで冷たく切り捨てなきゃいけないのかなという気もしていて、もし何もできないのであれば、それについてあまり無用な情報を集めても仕方がないという、ある種の倫理観が必要なのかなとも思うわけですが。
鷲田■情報の想像力ってなんだろうってことなんですよね。メディアに相対する側としては、ギャップに対して意識的になって、この情報の背後でどういうことがつながっているんだろうとか、想像力で埋めていかないといけなくなっている。
でも今回のことなんか、情報は一見過剰そうに見えるんだけれど、じつはごく少ない限られた情報の反復にすぎなかったという面がある。なんだか情報というより、同じ記号の繰り返しになってしまっていたり。情報に流されて、想像力が封鎖されやすい仕組みになているという感じがするんです。