CONTENTSへ幕張アーバニストTopへ幕張新都心Indexへ
前のページへ次のページへ


特集●海洋都市への提案
■座談会■
東京湾から見た幕張新都心(2)




幕張に水辺を再生する

三浦■幕張新都心も埋め立てによって成立している街です。ここに水辺を再生するには、やはり街の内部に海を呼び込んでやることが早道だと思うんです。

池田■この海浜公園なんか、中を水路で動けるようにしたら非常にいいんじゃないですか。

三浦■まったくそう思います。例えば、浜離宮は潮入り公園ですが、現在も素晴らしい状態で残っている。ああいう潮入り公園をしつらえると理想的なんですね。
 まだまだ無機質な街なんです。これをもっと有機的な匂いのする街にしていかなければならない。街を育てるための方策は、いかようにも取れると思います。やはり、知恵を絞り、住民からもどんどん意見を取って、さまざまな事例に学んで、思いきって海洋都市へとスイングするべき時期でしょう。
 その時に、例えば「幕張の浜」 (写真4)という人工海浜なども、本当に必要かどうかを見直すくらいのことまでやるべきです。21世紀には地球温暖化で、海面が50〜80cm上がるともいわれている。そういうことまで考慮して、長期に構想していかなければ意味がない。  ヨットハーバーを作れとはいわないまでも、まず船を着ける場所を確保して、海からのアクセスができるというキャッチフレーズが是非欲しい。東京ディズニーランドも船からのアクセスがないですし、幕張こそ船を着けるべきです。

山本■景観からすれば、海が不可欠な場所なんですね。電車で海浜幕張に来るには、京葉線という、まさに海と富士が見える電車でやって来るわけです。しかも京葉線からの眺めは、おおむね右富士なんですが、場所によっては左富士になる地点がある。これはなかなか貴重な体験ですよ。

三浦■ともかく最大の問題は、駅に降りて海を感じないことですね。

池田■確かに、海の存在をまったく活かせていないですね。

山本■本来、房総というのは日本全国の風光明媚が集まったような素晴らしいところなんですね。江戸時代には、行徳の塩浜の塩焼きの煙りというのが、また風情を一段と増して、内陸へ入れば、牧場があって馬がいる。馬に飽きた頃になると、今度はまた印旛沼があって水に出会う。こういう調和、または調和した風景がかつてはあったんですね。

三浦■千葉はとにかく豊かなんです。どちらの海に行っても海産物はありますし、温暖で畑も田んぼも十分あるし、食うには困らない。

山本■内房が東京湾、外房が太平洋、また北部に行くと江戸川と利根川にはさまれる、すべて水で囲まれている。水に囲まれている土地というのは、とにかく豊かです。木更津のあたりでは昔から、海に落っこちて手にしたものがあったら、絶対放すなといわれたというんですね。海のものは、何でも売れる。つまり、不況や飢饉が来ても、必ず食えるものがある所なんですよ。



豊穣の海、江戸湾

池田■鎖国で260年間、外に出ることが規制されていたとはいえ、豊臣の時代には、船でどんどん外洋へ出ていたはずだし、日本人が海洋民族でないはずがないと思うんですけれどね。

三浦■オーストラリアのダーウィンに行ったときに、信長の時代に向こうに漂着した日本人のお墓を見ました。まだイギリス人など来ていなかった時代です。もしも本能寺の変が起こらなかったら、日本人は海洋民族としての別の歴史を刻んでいたのかもしれませんね。

池田■イギリス人やオランダ人にとっては、海というと大航海時代という歴史とは切り離せない。ヨットが国民の生活意識の一部なんですね。ところが僕なんかがヨットやってると、会社の連中は「おい、経営の方はだいじょうぶか」なんて心配する。この差がものすごく大きいですね。

山本■江戸時代の日本人にとって、「泳ぐ」というのは、どちらかというと兵法の1つであった。一般の人はあまり泳ぎは得意ではなかったようです。江戸の噺をみても、溺れる話ばかりです。江戸庶民は、水に対する恐怖というのが非常に強かったんじゃないでしょうか。

池田■やはり鎖国が、日本人の海に対する感覚のギャップを生んだんでしょうかね。

山本■確かに、スケールの大きい外洋は、鎖国になって閉ざされてしまったんですが、その分、日本近海を巡るということについては、素晴らしい知恵が発達したと思います。

三浦■土佐日記を見ても、船で幾日もかけて京都に戻るという、そういう民族であったことが描かれています。しかしながら、海洋文学はなかった。

山本■その代わりに、風景画のなかに徹底的に水を求めてきたのが日本人です。江戸の潮見坂などといわれる眺望抜群の高台から望む東京湾は、江戸市民にとって、平穏で巨大な池だった。「果てし」がある海、自分たちの海という意識が強かったんだと思いますね。
 広重の江戸百景なんかは、海が出る、隅田川が出る、何もなければ池が出る。その次に山が出てくる。いうまでもなく富士山があり、目を東北の方に転じて、筑波山が登場する。水と山、これが江戸の風景です。しかも江戸市民というのは、よほど金持ちでないかぎり、自分の庭なんて持てませんから、この江戸の海と富士山が、生活空間の借景だったんですね。
 さらに房総半島の方へ来ると、海が目の前に見えて、海の向こうに富士山が見えるという、もっと素晴らしい風景があった。

三浦■江戸時代には、香取神宮、鹿嶋神宮、息栖神社の三社詣でが盛んで、そのルートとして、木下が参詣客でにぎわっていた。その頃の東京湾は、まことにきれいな海であり、まさに豊穣の海であったわけです。

池田■江戸時代には、東京湾はなんと呼ばれていたんでしょうか。江戸湾ですか。

山本■江戸の人は、内湾とか、ただ海とか呼んでいたと思います。外国人が来て、エド・ベイと言うようになって、江戸湾と呼ぶようになったんでしょう。

池田■ハウステンボスをやるにあたって、出島に来たオランダ人の日記を読んだんですが、彼らの江戸への驚きがたくさん書かれているんです。当時、パリもロンドンも江戸の半分くらいの人口だったにもかかわらず、セーヌ川もテームズ川も、生活排水がどんどん流れ込んで、匂いがひどかった。特にセーヌの渡し船が沈没したときに180人くらい死んだんですが、これも溺れ死んだんじゃなくて、メタンガスで死んだというくらい、ひどい。(笑)
 こんな有り様をさんざん見てきたオランダ人が、隅田川や江戸川、そして江戸湾が美しく澄んでいて、白魚が捕れるというような状況を見て、びっくり仰天するんですね。

三浦■まさに「水明」だったんですねえ。そういえば、川に水色のクレヨンを使うのは、日本の子供だけだそうですよ。欧米の子供でさえ、川は茶色で塗るそうです。

池田■「水色」という呼び名自体が、日本だけのものかもしれませんね。



江戸は高度な循環社会だった

山本■かつて、千葉方面から大山詣りやお伊勢詣りに行こうという場合には、当然のごとく船を使って江戸湾を渡ったんですね。内房沿いの街道をてくてく歩いて江戸へ行く人ももちろんいましたが、大半は船で江戸湾を渡っていたのが事実だろうと思います。
 本来、近世の交通体系では、川と海は物資を運ぶ道で、あくまで旅人は陸路を行くのが原則だった。江戸内湾も原則は、旅客を運んではいけない。小岩・市川・金町・松戸の関所で人を改める。ところが関所体制が固まる前に、木更津の住民に、江戸へ物資輸送の許可を出す。その時に、人間も運んでいいよという許可が出てしまう。そのため、木更津船がどんどん江戸に人を運び、江戸から人を運んだ。そうすると、他の地域からの船も人を運んでしまう。

三浦■行徳から船橋にかけての塩田も重要な産業で、この塩を江戸に運ぶために、小名木川という運河が掘られました。この川は現在でも活用されています。

山本■そうですね。検見川も、幕張も、かつて宿場町であったわけですが、宿場としての役割よりも、港町としての役割のほうがずっと大きかった。
 一方、輸送物資に目を転じると、じつは房総から江戸へ運ばれた最大の物資は燃料なんです。鎌倉幕府が成立して以降、房総から鎌倉、江戸に向けて、薪炭類が運ばれるようになる。江戸幕府になって、エネルギー需要はどんどん高まっていきます。佐倉の特産物のひとつが炭であるのも、そのためです。
 山が少なく温暖な房総は、江戸の巨大なオイル基地であって、これがストップすれば江戸はすぐにピンチに陥っただたろうと思います。

三浦■逆に、江戸から千葉、房総方面へは、糞尿が流通していました。百万都市ですから、大量の糞尿が出たわけです。江戸時代、ロンドンにしてもパリにしても、コレラが大発生しますが、江戸ではこれがほとんどなかった。その大きな理由は、糞尿が非常にうまく流通していたからですね。循環型社会であったわけです。江戸市中の町民から武家にいたるまで、排泄物は「有価物」であって、廃棄物ではなかった。農民とのあいだに取引が成立して商品として売れましたからね。

池田■水が美しく、さらに糞尿に貨幣価値がある。これにはオランダ人も、二度びっくりさせられたでしょう。

三浦■しかも、糞尿にもランクがある。(笑)おいしいものを食べている大名屋敷、豪商のものが最も高価で、町民、長屋と来て、いちばん安いのが、監獄に入っている罪人と、こう値段が違っていた。
 とにかく、年間50万キロリットルも出るのだから、これは馬や荷車なんかじゃ到底間に合わない。そこで船が活躍するわけです。江戸川を上って利根に出て、関東北部や北総に運んで行き、帰りには薪炭、野菜を運んでくるという、完全な循環型経済だった。農業は江戸のおかげで生産ができたわけですね。葛西船が道三掘で幕府のお偉方の排泄物を積んで、江戸近郊に流通させていた。

池田■江戸時代の鎖国にも功罪があって、鎖国したからあのような完全循環型社会ができ、また逆にそういう仕組みを作らなければ生きていけなかったということですね。



前のページへ||次のページへ
CONTENTSへ幕張アーバニストTopへ幕張新都心Indexへ