山本■私は東京で生まれ育ったんですが、今は幕張のすぐ隣りの検見川浜に住んでいます。小さい頃に潮干狩りをした辺りに住むようになるとは思いませんでした。地元の住民として、また東京湾の交通を研究するものとして、幕張は横浜、神奈川への対抗意識から脱却し、もっと新しい方向性に価値を見い出して、アイデンティティを確立してほしいと思っています。
そういう意味で、三浦先生の提唱されている「水の回廊構想」(写真2)は、千葉県や幕張にひとつの重要なテーゼを提案されていますね。
三浦■幕張になぜ「水の回廊」なのか、その歴史的な経緯を少しお話しします。亨保9(1724)年に、染谷源右衛門という土地の豪農が私財と幕府からの借金600万両で、印旛沼のくされ水をなんとか江戸に流したいという、止むに止まれぬ百姓が立ち上がったのが、そもそもの花見川開削の発端なんです。
天明3年(1738)には浅間山の大噴火が起きて、一帯に大量の砂礫が降り、農業は大打撃、川底は浅くなって一挙に氾濫が増えてしまう。その年、治水対策として、印旛沼から江戸湾へ水を落とす事業が始まります。
老中田沼意次が、印旛沼周辺の干拓を兼ね、幕府直営工事で運河を掘削するわけですが、3分の1ほど完成したところで、田沼が失脚して中断する。その後、天保水野忠邦の時代に、今度は五つの藩の御用普請ということで、金も人足も各藩から連れて来させて民間開発でやった。治水、水田開発と同時に、銚子から高瀬舟で内陸舟運をさせて、江戸前に船を下ろしたいという意向もあった。ここが開通すれば、まさに房総をぐるりと囲む「水の回廊」が完成するはずだったんですね。結局、わずか90日で3分の2以上作ってしまう。記録によれば、運河を利用して、芋や薪、米も運んだらしいんですが、残念ながら完成はしなかった。五藩もなんとか御用を逃れようと陰謀渦巻き、やがて工事は中断してしまう。大変美しい花見川という名前が付くのはこの頃です。
明治に入ってからも、オランダのお雇い外国人を連れてきてみたり、大久保利通も見に来たりはしているんですが、どうしても進まない。どうも田沼意次と水野忠邦に、呪われているとしか思えない。(笑)満州事変、日露戦争などもあり、全部計画倒れになってしまいます。戦後食糧難の時代には、旧農林省により、印旛沼の干拓が進みます。工業化の時代に入ると、今度は京葉工業地帯のための工業用水の取得という目的で、沼の総合開発が進む。時代はモータリゼーションのただ中です。花見川に船を通そう、物を運ぼうなんていう考えは、一切どこかに消えてなくなりました。これが今日に至る花見川の歴史です。
その花見川が、今日では河口部分は三面張りの護岸になって、この幕張新都心の喉元に流れてきているというわけです。
山本■コンクリート堤防は、河口に近い所だけでしたよね。
三浦■ええ。三面張りは埋め立てのちょっと上くらいまでで、残りは全部手つかずの川辺のまま、水野忠邦が掘った当時の状態で残っています。深いところでは、渓谷のようになっているところもあります。
山本■蛇もたくさんいますし。両側はずっとサイクリングロードです。
池田■これは貴重な財産ですね。三浦先生があらためて、「蘇れ水の回廊」をいわれてから、具体的に何か動きはあるんですか。
三浦■地元市民は大変に注目してくれています。中央官庁の方でも興味を示してくれる人はいるんですが、費用対効果の面で、実現はなかなか難しいです。
池田■この岸辺の風景は素晴らしいですね。こんな風景が残っているとはねえ。
三浦■ただし、水が汚いんです。
山本■洗剤の泡が飛んでますよね。
三浦■「花見川を美しくする会」という、地元の市民団体があるんですが、会長さんが古くからここに住んでいる方で、戦後まもなくは川で鰻の稚魚をつかまえて、お小遣いにしていたというんですね。
夏場は臭くなるので、千葉県が水資源開発公団に依頼して、印旛沼の水をポンプ・アップして流すんですが、そうすると今度は、ヘドロを巻き上げて真っ黒な川になるんです。臭いはなくなるんだけれど、このヘドロがまたひどい。何とかして欲しいというのが、住民の思いですね。
下水道が普及したおかげで、下水はパイプで河口の処理場まで来て、きれいに浄化されて海に排出されています。この浄化された処理水を、いったん花見川に戻して流せばいいと思うんです。川の蘆葦や水草が、残りの窒素やリンを取ってくれて、きれいな水になって流れてきますよ。
池田■船は通れないんですか。
三浦■潮止めの堰があるので船は通れないんですが、ロック(閘門)を設けて通せるようにしたいですね。
池田■それは是非やるべきですね。