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地域開発としてのリサーチ・パーク
――アメリカの地域産業集積モデル――


星野 高■(株)社会基盤研究所 取締役調査部長

華やかな発展で注目される米国有数のリサーチ・パーク。
幾多の揺らぎと紆余曲折をバネにし、産学官の協同体制をしっかり培ってこそ、その成功はある。


不動産開発の一手法としての
リサーチ・パーク


 リサーチ・パーク(Research Park)というと、日本では〈研究団地〉という言い方をする。これはもともと、アメリカでインダストリアル・パーク(Industrial Park)、いわゆる普通の工業団地が多くあったが、その新しいマーケティングとして出てきたネーミングであった。
 具体的にどういうものかというと、主に有名大学の隣接あるいは近接地に企業や研究所が立地できる場所があり、かつ、その周りが快適で、住みやすい地域であるところをリサーチ・パークと称している。インダストリアル・パークに比べると単価が高く、そのように販売されるところが一番のみそである。

 スタンフォード大学の横にスタンフォード・リサーチ・パークがある。正式に営業を始めたのが1951年と言われており、そこに現在でもヒューレット・パッカードなど、いくつかの代表的なハイテク企業の本社や施設があるところから、ここがリサーチ・パークの元祖といえるような所である。
 スタンフォード大学があって、そこから出てきたハイテク企業が伸びたというイメージが、販売上、非常にいいので、リサーチ・パークという言葉は、スタンフォード大学とスタンフォード・リサーチ・パークというイメージを引き継ぎ、一つの言葉として独り歩きした概念である。特に初めの頃、70年代ぐらいまでは、リサーチ・パークというのは、地域開発のなかでも、不動産開発の一つのコンセプトとして捉えられていたのである。

 もっとも、そのようになるには大学側にもそれなりの事情があった。大学側からみると、当初リサーチ・パークは、税金を取られないための苦肉の策だった。アメリカの場合、余分な土地を持っていて何にも使っていないと、地方自治体から不動産税をかけられる。しかも、日本とは発想が違うが、未利用地に対しては多く課税される。この豊富な遊休地への課税問題を避けるための知恵から出てきたのが、リサーチ・パークであった。



広義な概念としてのリサーチ・パーク
――研究開発を円滑にするソフトな環境・空間


 ところが、80年代半ばころから、リサーチ・パークに対する概念が質的に変わり、より広い概念へと発展する。この時期に、シリコンバレーやボストンのルート128など、ベンチャー企業が多数輩出されてきたところを改めて見直すという作業が行なわれた。
 この過程で、新しいリサーチ・パークや色々な仕組みづくりが出てくる。主に州政府や地元市町村、州立大学、そして地元進出企業とのさまざまな仕組みづくりが、試行錯誤のなかから新しい産業を作り出したり、ハイテク産業を中心としたハイテク集積地域をかたち作っていった。

 この80年代以降のことを振り返ると、リサーチ・パークは、かなり広義な意味を持ち、当初の意味の不動産開発とか、ハードの整備という範囲を超えた。研究開発活動が地元の産官学とネットワークをつくって円滑に進められていく空間づくり、それの一つの物理的な焦点、場づくりというふうにリサーチ・パークの概念は拡大してきたのであった。



ハイテク集積地域への道
――リサーチ・パーク成功への三条件


 このように、アメリカでは非常に多くのリサーチ・パークが開発されてきた。そのなかには、うまくいっていないところもあり、うまくハイテク集積地域へと発展しているところもある。

 表1は、アメリカの有名なハイテク地域の発展過程を一覧表にまとめたものである。自然発生的なものもあれば、計画的なものもある。日本への政策的な示唆を考えるとすれば、関心は自ずと計画的に発展していった地域に向かうだろう。しかし、自然発生的な事例からも学ぶところは色々ある。以下では、リサーチ・パークを成功へ導く大切な条件を三つ取り上げよう。



(1)不況こそ成功の母:弾みやきっかけをどう作るか
 すでに成功したハイテク地域をみてまわると、多くのところは自然環境が良く、生活が快適にでき、研究水準の高い大学や公的な研究機関が近くにあり、大企業ばかりでなく、ベンチャー企業が誕生しやすい環境である。
 しかし、これは結果論にすぎないことに注意する必要がある。実際、生活環境がいいとか、自然環境がいいという説明は、後からついてくる理屈である。その地域がハイテク地域として成功していくには、やはり何らかのきっかけがなければならない。それに弾みがつくというのが非常に重要なことになってくる。

 そこで、きっかけとなりやすいのは、やはり不況である。地元経済で、これまで成功してきたことが〈揺らぐ〉ことが貴重な機会を創ることになる。これをきっかけに、地元の色々な人々の新しい試みが花開いていくことが、その地域がハイテク地域として成功するか否かの一番の鍵になる。
 一般に、不況になると、これまでどこかの組織や業種に独占されていた人材が放出され、色々な産業に拡散していくものだ。この人材のダイナミックな動きが、つぎの産業集積、あるいはベンチャー企業が興ってくるためのひとつの重要な下地となる。

 ボストンを例にとると、アポロ11号の月面着陸成功(1969年)が、〈宇宙開発特需〉で潤っていた同地域に、NASA予算の大幅カットという反動をもたらしたことがある。70年代半ば頃まで、物理学の博士号所持者がタクシー運転手をやっているというのは、冗談ではなく日常的にあったらしい。
 その時、ボストンで画期的だったのは、地元有力銀行であるボストン銀行が、アメリカでも初めてベンチャー企業融資を始めたことだった。現在のように洗練された仕組みではないが、ハイテク技術関係の企業に、担保なしで、技術の将来性を評価して、資金を貸し出した。そうした企業のなかから、DECやアポロ・コンピューターなど、パソコンの前のミニコンと言われた分野のベンチャー企業が誕生、発展していった。

 ボストン以外でも、ボーイング不況(1971年)に見舞われたシアトルや木材不況(70年代後半)に苦しんだポートランド(オレゴン州)がこの例にあたる。



(2)雌伏十年、継続の大切さ:長期ビジョンをいかに堅持するか
 次に大事になるのは、受け皿となる州政府や、その地域の大学、産業界の取り組み体制である。努力を長く継続するという方針が確立していれば成功する、ということだが、これは、〈言うは易く、行うは難い〉ことである。というのは、リサーチ・パークが認知され、その地域にハイテク企業の集積ができるまでに、少なくとも10年間はかかるが、知事をはじめ地方政財界の指導者の任期は2〜4年間と短いからである。
 なかなか目に見えた著しい成果を示せない段階で、最初のビジョンを継続・保持するには、地方選挙の政争の具に利用されないような独立した組織づくり、あるいは、地元産業界と州政府とのパートナーシップの確立、あるいは、地元出身の中央政界OBの登用など、仕組みづくりの知恵が求められる。

 長期的な開発の取り組みとして、ノースカロライナ州のリサーチ・トライアングル・パークの1950年代からの紆余曲折は大変興味深いものであるが、ここでは1980年代の例として、まずオレゴン州のシリコン・フォーレストを取り上げよう。

 シリコン・フォーレストは、ポートランド市とその周辺地域のハイテク集積地域のニックネームである。シリコン・フォーレストの発展のきっかけとなったのは、木材不況である。木材と小麦の輸出に依存していた州経済が立ち行かなくなったことに危機感を持ったオレゴン州政府とポートランド市政府が、真剣に州外の企業誘致に取り組みはじめたのは、これが最初であった。
 当時考えられた長期ビジョンは、現在では洗練されたかたちになり、〈シリコン・インダストリー・バーティカル・インテグレーション(Silicon Industry Vertical Integration)〉と呼ばれている。このビジョンの骨子は、〈1〉ポートランドの自然環境の良さを武器に、環境が悪化するシリコンバレーから主要企業の研究開発施設やスピンオフする企業を誘致すること、〈2〉水力発電による安価な電力を武器に、世界の有力シリコン・ウエハー製造企業を誘致すること、〈3〉シリコン・ウエハーからCPU製造まで関連サポート企業やソフトウェア企業まで総合的に誘致すること、そして、〈4〉進出した企業からスピンオフしたベンチャー企業も当地で発展できるようにすることの4点にまとめられる。

 州政府や地元市当局は、税制や土地売却の規制などをいち早く変更するとともに、ポートランド市経済企画開発局を中心に、官民合同の企業誘致マーケティング・チームが組成され、活発な活動を展開した。その際、地元中核企業のテクトロニクス社や早くから進出していたインテル社の意向もビジョンづくりに取り込んできたことが、ビジョンの永続性と信頼性を高めたといえる。80年代半ばころにビジョンに沿った分野のドイツ企業や日本企業の誘致に成功したことも、ビジョンの適切さを裏付け、現在まで首尾一貫した産業ビジョンを維持してこられた一因だろう。



(3)産学官の意思疎通:利益還元方法の合意をいかに形成するか
 第三に大切なことは、産学官のなかの「学」との意思疎通をいかに十分にはかるかである。大学は研究機関でもあり、教育機関でもあり、かつ地域経済の主要雇用者のひとつでもある。大学をひとつの〈産業〉と理解するアメリカといえども、産学官の協力体制が具体的にどのような恩恵を大学にもたらすか、その利益の還元方法が明らかにならないと、大学の研究者たちは動かない。

 地域の経済成長率、賃金上昇率、不動産上昇率などの一般的な経済指標の動向よりも、大学関係者は、より彼らの本業に近い〈経済指標〉の動向に敏感に反応する。そのような〈経済指標〉とは、例えば、卒業生の地元就職率、企業奨学生数、先進研究設備の充実度、最先端研究テーマのプロジェクト数、全米大学のなかの研究ランキングなどである。

 先述したノースカロライナ州のリサーチ・トライアングル・パークが成功したのは、周辺の二つの州立大学と一つの私立大学が、共同出資でパーク内に研究機関を設立し、企業と協同研究できる仕組みを確立したことにある。大学が三校協調することで、マサチューセッツ工科大学やスタンフォード大学に匹敵する研究環境を整備しようとしたのであった。この発想は、30年以上前に生まれたものだが、古さを感じさせない。
 リサーチ・トライアングル・パークからの収益は一定の方式に基づき、各大学に還元されるが、三校はその利益をもとにマイクロ・エレクトロニクス研究センターとバイオ・テクノロジー研究センターを共同でパーク内に創設した。この二つの研究センターは、ノースカロライナ州内外の教育機関や企業のための指導的研究拠点になっている。



大学を変える圧力
――はたして一流大学は必要か?



 アメリカのハイテク集積地域の事例から、成功のための条件を述べてきたが、意識的に取り上げなかったものがある。それは一流大学の存在である。一流大学はあってもよいが、その存在はハイテク集積地域が発展するための不可欠な条件ではないからである。

 研究者でも、ビジネスから引退した人でも、核になる志を持った人を数人集めてくる。そうすることでモメンタム(弾み)がつくのである。大体、初めから一流を揃えても、逆にいけない。ベンチャーを始めようと思う人は、エリートの目先の利く人ではない。目先の利く人だと、リスクの方が先に見えてしまい、そもそもベンチャーをやろうとは思わないものである。
 アメリカの大学が大々的に発想転換を図り、産学協同や地域振興・ベンチャー支援に本格的に取り組み出したのは、実は80年代になってからである。その背景には、人口構成の変化(就学人口の減少)と長期間の不況(重厚長大産業の衰退)、それに大量失業という大きな環境変化があった。70年代後半から80年代にかけて、大学は150校ほど潰れた。大学が伝統的な象牙の塔から変化するには十分な素地があったといえよう。それをレーガン政権の技術移転政策、知的財産重視政策が後押ししたのだ。

 翻って日本をみると、アメリカで生じたものと同じ環境変化が大学を襲いつつある。有名大学がいくつも経営破綻するのを待つ必要もあるまい。
日本では、何事もあとから成功事例を見ることが多く、その時の一番いい状態を見てしまいがちである。しかし、何事にも初めがあるということが、最も重要な点ではないだろうか。



ほしの・たかし●(株)社会基盤研究所 取締役調査部長
1954年生まれ。日本長期信用銀行調査部調査役、長銀総合研究所経済調査第一部主席研究員を経て現職。著書に『アメリカの企業立地・投資環境』『目をさませ、日米関係』『三年後の土地・企業・都市』他

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