CONTENTSへ幕張アーバニストTopへ幕張新都心Indexへ


■座談会■
“新・学問のすすめ”――ダイガクが創る都市(1)


石井米雄■神田外語大学学長
坂元 昴■文部省メディア教育開発センター所長
吉川弘之■放送大学学長
 
21世紀の発展の源は「知」のルネッサンスにあるといわれる。
高度に細分化したゆえに全体像を見失った学問や、
学級崩壊などの現象を生んだ教育システム、
持続的な視点を欠いた経営や政策への反省のなか、
地域振興の核となる「学際」のあり方が問われている。

幕張新都心に立地する
3つの大学・研究機関の長が集い
教育と学問の課題を語った




学問の細分化が教育に弊害をもたらした

石井■これまで大学というのは、「いい企業へ就職できる」ということが売りだったわけです。ところがこのごろは、就職してもいいし就職しなくてもいいっていう学生の数がかなり増えてきている。かつては、いい教育を受けて、いい大学へ入って、いい勤め先へ入るというのが、一つの人生の階段だった。進路というのは、一種のハイアラーキーができていて、単線的で選択肢が一つしかなかった。どうもそれがいろんな意味で変わってきていると思います。
 外交官になりたかったら外交官になれるような、商社に行きたかったら商社へ行けるような、NGOで働きたかったらそれができるような、常識や判断力、自分で問題を立てて、それを解決する能力を、4年間で育てる。そういう教育が大切になっている。課題を出されたら、自分で本を読んだり、人に聞いたりして解決する、そういうポテンシャルを大学でつくっていくことが求められていると思います。大学はもっと機能分化をして、それぞれの大学がみんな胸を張ってやるという状況をつくっていかなきゃいけない。
 ある某有名私立大学の先生が、「私は東大へ入れなかったというトラウマをいかに乗り越えるかに神経をすり減らしてきた」と言っていましたが、学界ではよく聞く話です。これでは学生も気の毒だし、先生も気の毒です。非常に困るのは、大学教授の評価が、例えば論文を何本書きましたかとか、そういうことでやるんですよ。私は、良い先生であったら、論文ゼロであってもいいじゃないかと思います。残念なことに、良い先生であるということを評価する仕掛けがない。

坂元■大学の先生というのは、自分の置かれている大学の特色を生かした教育を、責任をもって構想し、行なっていかければならないはずなんです。国立大学の独立法人化が議論されていますが、それ以前に大学の教育方法なり、教育の内容を変えていくことが急務になっていると思います。
 何もみんながみんなミニ東大をめざして、高度な学問を追い求める必要はない。なのに、みんな東大、京大のほうを向いて同じような学問を教えようとして、「学生に力がない、ない」と嘆いている。

吉川■いま学問をめぐる状況には、大きく2つの問題があると思います。まず知識のなかには学問で扱えないものがある。人間の持っている知識のうち、せいぜい学問で体系化できるのは半分程度にすぎません。もう1つは、学問が文科と理科に分かれ、分野が細分化されたなかで、知識の不均衡という非常に大きな問題が起きている。総合大学を見ても一目瞭然です。非常にたくさんの学科ができて、それなりに自分たちのカリキュラムで主張しているが、結局は自分たちのムラをつくり、その「ムラ人」を育てるということが教育になってしまっている。できるだけ狭い分野をつくってムラを守りたいというプレッシャーが働いています。
 結果的に、こうした分化は当然、知識生産を効率化し、知識は幾何級数的に増えていった。科学が猛烈な勢いで進歩して、論文が量産される。しかも論文の数で研究者を評価する。つまり「知識をたくさん生み出した人が勝ち」という文化があるわけです。

石井■細分化という問題は、人文社会学でも顕著です。例えば中国の歴史2000年を語れるというのは専門家ではなくて、明の時代の社会組織とか、宋代の経済問題の細かいことを研究するのが専門家である。「私はインドネシアのことは知らないが、インドネシアのこの島のことは世界で一番知っています」というほうが評価される。優秀な学者といわれる人が、みんなして一生懸命間違いを起こしているという、とんでもない状況が起きているわけです(笑)。

坂元■さらに悪いことに、その細分化の弊害が教育に及んでいます。分化された専門を次の世代の人に再生産しようとする教育が強すぎる。つまり物理学とか生物学とか、いろいろ分化した専門が先にあって、やさしいほうから難しいほうに内容を序列づけて、学年別に割り当ててできたのが、初等中等教育のカリキュラムです。社会科学、人文科学、自然科学をさらに細切れにして、50分とかの授業で、1週間に配列して勉強する。
 こうした縦割りカリキュラムへの反省から、総合的学習というのが導入されたわけですが、インターネットなんかを通じて自由に勉強し始めると、情報を自ら探し出してきて、選んで、組み合わせて、つくり出して、お互いに交換して、そこから批判を受けて、また新しい世界の見方を自分で構築していくということができるんですね。それが初等中等から、だんだん大学教育にまで広がってきている。
 ところが、現場の先生だとか、大学の教授が、まだ十分に対応できずにいて、混乱が起こりかけているというのが今の状況ではないかと思います。
 学問そのものが複雑になったぶん、俯瞰的に見なければいけない、総合的なものの見方をしなければならない。それをカリキュラムにするときに、専門家の目で見た断片的な世界観ではなくて、もっと複合的な世界観を、やさしいものから難しいものまで、年齢に合わせて組み合わせていって、小中高大とカリキュラムを展開していく教育をやらなければいけないと思うんですね。



いまこそ教養教育の見直しが必要


石井■いま、高等学校で難しいことを教え過ぎますよ。例えば学生に、「きみは日本史習ったか」と聞くと、「世界史を取っていたので日本史は知りません」と言う。世界史なら小さいことを物すごくよく知っているのに、日本のことは何にも知らない。こんな教育はまったくおかしいと思います。
 例えば、江戸時代は鎖国だったと言いながらも、あのときにインドからたくさん木綿が入ってくるわけです。桟留(サントメ)という木綿がありますが、あれは実はインドにあるセント・トーマス=サン・トメを日本語に置き換えたわけですね。江戸時代にインドから東南アジアを通じて日本に輸入されていたという、おもしろい事実を教えない。
 まさに「今を理解するために過去を理解する」そういう動機から入れれば、授業は俄然おもしろくなると思うんです。

坂元■そうするとなぜだろうって、自分で調べ始めると思いますね。理科も同じことです。

吉川■そこに実は学生たちの「異議申し立て」というのが起きているのだと思うわけです。これほど「知」というものが必要になっている社会において、自分たちは本当に必要な知を学んでいるのだろうかという疑念をもたせ、学問への動機を喪失させるような教え方を、学校のほうがしているのではないでしょうか。

坂元■ この間、ドイツのユネスコの幹部の人に会ったときに、「いま日本は大変なんだ、若者も専門化が激しくなって、一般的な教養の勉強ができなくなっている」と言ったら、ドイツでもそうだと言うんですね。かつては、人生論から哲学論、社会論、政治、いろんな話題をひとしきり話して最後に「ところであなたの専門は?」と聞くと「量子力学です」と言うのが知識人だった。ところがいまは、のっけから「私は物理です」と宣言されてしまい、ほかの話題が一切出せなくなっているというんです。

吉川■世界的にそういう傾向になっていますね。

坂元■それだけ学問の弊害というのが出ているということですね。

吉川■もともと学問はリベラルアーツだった。1人の学者、哲学者が、自然をまるごと理解したときに初めて学問と言い得たわけです。まさに分割されていないもの、それが我々の一般教養のはずなんですね。やはりここで、もう1回、知識というものをひとかたまりにして我々が手に入れるための、第2の文芸復興が必要です。

石井■専門教育が非常に重視されてきた近代の状況のなかで、日本では教養部がみんな解体されてしまった。これはまったくおかしいことだと思います。今こそ求められているのは教養教育なんです。

吉川■学問というのは、圧倒的にファクト(事実)を教える、その事実を探り出すプロセスについては教えない、そういう構造になっていたんですね。例えばニュートンの三法則を使えばすべて説明できるが、その三法則をどうやって生み出したかということについては、ニュートンは書かなかった。「書けなかった」んですね。しかし、なぜニュートンが三法則に至ったかという研究はたくさんある。しかしその話は、現代の教科書にまったく書かれていない。ものすごく大きな見落としを、学問の世界でしてきているんじゃないかという気がしています。

石井■最近、ゲーテの『ファウスト』を読み直しているんですが、ゲーテという人は色彩論を書いたり、大変な自然科学的な知識を持っていたうえに、小さい国だけど一国の宰相になり、政治もやっていた。あれだけの文学を書いたうえに、素晴らしい人ですよね。ある意味で知の理想像だと思うんです。分析だけではなくて、トータルにものを理解していくことの価値を認めるのが、いますごく大切だと思います。


   

次のページへ
CONTENTSへ幕張アーバニストTopへ幕張新都心Indexへ