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コラム■URBANIST IN MAKUHARI

ウォーターフロントの新世紀へ
海辺の都市論(1)
文■陣内秀信


写真
 長い世界の歴史の中で、都市の多くは川沿いや海辺に立地し、船の交通を活用しながら発展し、繁栄してきた。水辺に都市機能を支える重要な施設が並ぶとともに、船でアプローチする人々にとって印象的な、水の側から見た都市風景の演出が、どこでも追求された。

 「海の都」ヴェネツィアはその代表で、アドリア海からラグーン(内海)に入り、この都市に接近する船は、水に開いて象徴的に構成されたサン・マルコの広場を目指した。その美しさは、外国から訪ねる人々を魅了し、まさにこの街のイメージを強烈に印象づけたのである。今もその姿は変わらず維持され、訪れる人々の目を存分に楽しませてくれる。

 日本の「水の都」大阪(大坂)も、海からのアプローチをよく考えてつくられていた。淀川の河口にできた大坂だけに、常に川筋の浚渫が必要で、その土砂を盛って、港の入口に天保山が築かれた。それが市民にとっての行楽地となると同時に、海から入る船にとっての格好の目印となったのだ。

 近代の都市もまた、初期には、アジアでもアメリカでも、水辺の美しい都市空間を各地に形成した。飛行機のない時代、物資の輸送ばかりか、人々も船で旅をしたのだから、当然であった。

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 日本の文明開化も、ウォーターフロントの空間から始まったといえる。神戸と並ぶ日本最初の近代都市、横浜は、ちょうど上海のバンドと同様に、水辺に開放的な建築が連なる象徴的な風景を実現した。その様子は錦絵に数多く描かれている。今も残るニューグランド・ホテルの旧館は、正面を堂々と海に向けた興味深い建築である。

 明治から昭和初期のモダニズムの時代にかけては、港町は活況を呈し、小樽、函館、門司をはじめ、各地に個性あるウォーターフロントの都市空間を形成した。運河や埠頭に面した威風堂々たる倉庫群、そして銀行や貿易会社の美しい様式建築が並ぶ金融街が、当時の繁栄ぶりを物語っている。

 だが、戦後の近代化は、海や運河、河川を否定して進行し、我々は陸の時代を生きることになった。港は物流基地として重要性を持ち続けてきたが、市民や旅人の目には触れない空間となった。国内の交通は鉄道や車に、外国との行き来も飛行機にとって代わられた。湾岸は工場が並ぶ産業の場となり、海は汚れ、自然が失われた。人々のイメージから海は遠くへ後退したのである。


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