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■座談会■
幕張新都心の10年――過去から未来へ


伊藤 滋■都市計画家
蓑原 敬■都市プランナー
沼田 武■千葉県知事
司会■横田正文(千葉県企業庁地域整備部幕張新都心整備課長)
 
首都圏の「都市化」と千葉


―――まず最初に、幕張新都心の構想が策定される以前の背景としまして、昭和五十年代前後の首都圏の都市開発をめぐる状況について、ざっと概括していただけますでしょうか。

伊藤■昭和三十年から五十年までの首都圏の膨張を振り返ると、まさに日本の経済成長そのものを物語っているわけです。結局のところ、人口の集中によって起きる生活上の諸問題、経済上の諸問題をいちばん被ってきたのが千葉県ではないか、首都圏経済を下支えしてきたのは千葉県じゃないか、私はそのように受けとめています。
 千葉県の湾岸埋め立て、また新京成沿線に象徴されるような猛烈な宅地開発は、他県に比べても多大な経済貢献をわが国にもたらしてきた原因であることは間違いありません。一方では泥を被り犠牲を払いつつ、日本経済を盛り上げる大きな原動力となってきたといえるのではないでしょうか。神奈川には戦前からのストックがあり、それをうまく生かして伸びてきたけれども、高度経済成長の受け皿という意味では、やはり千葉県が象徴的だという気がします。
沼田■千葉県の面積は五一万haあって、これは東京と神奈川を合わせたよりも広く、首都圏最大の県土です。昭和二十六年当時には、二一五万人だった人口は増加の一途をたどり、現在およそ五九〇万人にまで達しています。
 その間、昭和五十三年五月には成田空港が開港し、県産業の近代化に大きな契機となった。そして昭和五十八年には、ついに人口五百万人を突破する。余談ですが、その記念として建てられたのが、千葉港のポートタワーです。
蓑原■昭和三十年頃には、首都圏一都三県の人口が千三百万人ほどしかいなかった。今の上海市と同じぐらいです。これがその後二十年間で、二千五百万人にまで増えていく。
 千葉県にはその増加人口のおよそ三割近くが流入していることになり、伊藤先生が言われたように、まさに首都圏の膨張の受け皿だったわけですね。
 それは言い換えれば、首都圏の急速な「都市化」の受け皿として動いてきたということです。工業、流通の発展による首都圏経済への貢献もさることながら、住宅の供給が大量になされた。光が丘、常盤平をはじめとする住都公団のモデル団地は、ほとんど千葉に集中していたと言っていいです。東葛の高根木戸、八千代台、江戸川台など、次々にモデル団地を建設してきた。善くも悪くも、強烈な都市化の波にさらされて、都市型の県に転進してきた経緯というのが、現在の千葉県の背景にあります。
 そうした推移の中で、知事は当初、県庁の方におられたわけですね。
沼田■ええ。昭和二十三年から五十年頃までは、県の職員として勤めておりまして、そうした激動の渦中にいたこともあり、また脇から眺めていたこともありました。(笑)そして五十六年からは、知事として県行政全般に携わってきたわけです。
 ざっと振り返りますと、戦後、農業・水産業主体の第一次産業県であったんですが、昭和二十六年にまず川崎製鉄が進出したのを皮切りに、京葉工業地帯の埋め立てが始まり、重化学工業を主体とする現在の工業地帯が出来始め、昭和四十年には八幡製鉄(現・新日本製鉄)が進出するなど、臨海工業が急速に発展しました。
 ところが昭和四十五年から五十四年頃にかけて、ご存知のように石油ショックで大変な不況を迎え、以降、産業構造の質的改善に取り組んできました。学術・教育機能、研究開発機能、国際的物流機能の集積を三つの柱として、臨海工業から内陸工業へと強化を移行し、現在では臨海五三%に対して内陸四七%という割合にまでなっています。昭和二十六年当時の千葉県は、工業県としてはまだ全国で二十六位で、農業中心の県でした。その後、農業も近代化が進んで、現在では農業・工業ともに上位県になっています。
 そして昭和五十九年には、「二〇〇〇年の千葉県」という長期ビジョンを作成し、バランスの取れた産業県、県民福祉の向上、幹線道路網の整備を柱に計画を進めてきました。そしてこの長期ビジョンもあと二年程を残すのみとなり、二十一世紀を目前にして、さらに次の段階へ向かおうとしているところです。


幕張新都心という「計画」


―――そうした時代の流れを受けまして、幕張新都心の計画が具体化されていったわけですが、この計画そのもの、また事業化手法などについてはどのようにお考えでしょうか。

伊藤■当時の流れからみると、昭和五十年代から「でかいことはいいことだ」といった非常に明快な基本方針が千葉県に自ずと出来ていって(笑)、それがいいものを生んできたという印象を受けます。
 幕張新都心計画なんかは、まさにその最たるものと感じますね。
蓑原■とてつもなく大きな変化の波を、一瞬の間に受けてきた千葉県だからこそ、「計画」というものが県政に大きな意味を持ってきた、そういう観を強く持っています。昭和五十年代までの二十年間は、余りの変化の勢いに計画もへちまもなかったけれど、それ以降、昭和六十年代から平成へと経済が成熟化を迎えていくなかで、「計画」は千葉県の目指す構造改革に、大いに機能を果たしてきたと思うんです。
沼田■おっしゃるとおり、幕張新都心というのは、まさに「計画」の勝利によってもたらされた成功例だと私どもも自負しています。
 そもそも幕張新都心計画の背景には、昭和五十八年に構想された「新産業三角構想」というものがあります。これは、成田国際空港都市、幕張新都心、かずさアカデミアパークの三つの拠点整備をしながら、これらを高速道路で結び、千葉県の成長の拠点にしようということで始めたわけです。その中で幕張新都心は、職・住・学・遊の機能を併せ持った、まとまったスケールの街を創っていこうという計画で始めたわけです。
伊藤■昭和五十八年あたりには、横浜ではみなとみらい、東京は臨海副都心の計画を出していましたが、まさか千葉の幕張新都心が、これだけの規模で成功を見るとは失礼ながら予想外の展開だったと思います。(笑)ところが結局、幕張がいちばん早く造成を進めて、分譲もどんどん進めましたよね。
蓑原■そのタイミングたるや、じつに絶妙でした。
伊藤■役人の仕事とはとても思えないです。アメリカの不動産屋のようなセンスですよ。高値高値で土地が推移しているときに、見切り発車で「ここで売ろう」と言った人がもし企業庁の中にいたとすれば、その読みのタイミングはすごい。(笑)
蓑原■それはおそらく、千葉県企業庁という組織の体質が大いに関係していると思います。経済社会の動向に対して、これだけ敏感に動ける役所の組織というのは、あまり例がない。企業庁がもともと持っている民間的なセンスと弾力性が、うまく発揮されたんでしょう。
伊藤■昭和三十年代の大阪府企業局が、千里ニュータウンや泉北ニュータウンを開発した時もすごかったですが、あれも事業センス抜群でしたね。
蓑原■ええ。しかしあれは、大阪府庁あっての企業局で、やはり公共事業の延長という印象なんですが、こちらはもっと企業庁独自のやり方といいますか、民間とのパートナーシップなどのセンスをうまく生かしているように感じるんですよ。
沼田■企業庁のセンスをお褒めいただきましたが、(笑)幕張新都心の土地分譲がうまく進んでいった要因のひとつとしては、まず幕張新都心の地主はすべて千葉県だったということと、相対的に価格が安かったということでしょう。事業的センスが多少とも発揮された点といえば、例えば建物を建てるまでは土地は貸しましょう、土地代は建て始めてからでいいですよとか、そういった柔軟な対応にあったかもしれませんね。
蓑原■都市開発というのは共同事業ですからね。官だけでも民だけでもできない。民間とのつながりの意識や情報交換の大切さを認識しながら、なおかつダーティーな所は一切なく立ち上げてきたというのは、素晴らしいことだと思います。日本社会のなかで、このような手法で公共的な事業開発を行うということは、非常に難しいことなんです。
 例えば、幕張の業務研究地区は、ほとんどが自社ビルとして分譲されましたが、もしもこれが賃貸ビルだったとしたら、今の不況下では壊滅的にやられていたでしょう。自社ビルで行こうというのは、最初から決断されていたことなんですか。
沼田■それは最初から意図していました。千葉県に本社機能を持ってくるということは、県の財政にとって大変重要な課題でしたからね。千葉には本社機能が少なかったんです。当時は経済が上り調子でしたから、幕張もご他聞にもれず、狙いどころの土地として様々な方面から興味をもたれていました。しかし、あくまでも我々は計画に乗っ取った戦略的な立地を進めていきたかったのです。
 相手が大手企業でも「東京本社千葉支店はお断りだ」と千葉県企業庁も強気に出まして、「幕張に進出したければ、東京本社が直接移転してください」と直接交渉しました。もちろん丸の内、大手町などにしっかと本社を構えている企業がまるごと本社を移すのは無理でしょうから、その場合には「第二本社としての機能にしてください」とお願いしました。
 当時はそのように強気に出て、業務研究地区はもとより、隣接する拡大地区も順調に分譲が決まりましたが、その後バブルがはじけてしまい、拡大地区への進出予定企業は、土地を確保しているのに進出できないという事態になってしまっています。
伊藤■強気に出られたとはいえ、ライバルの東京や横浜の埋立地に企業ビルが建つということは、だいぶ意識されましたでしょう。
沼田■それはもちろんです。しかし幕張メッセがオープンして、その集客や話題性のインパクトが計画の実現に一気に拍車をかけましたね。



メッセを創った大英断


―――今、沼田知事が言われましたように、幕張メッセのオープニングに幕を開けた幕張新都心にとって、メッセの存在は、街のシンボルとして、また計画を進める上での中核的な施設として、非常に重要な役割を果たしてきました。メッセを中心に新都心誕生の当時の状況を振り返り、ご意見ご感想をお願いします。

沼田■幕張新都心は、平成元年の十月九日にメッセがオープンして、ちょうど九年が経過し、十年目に入ったところです。反省すべき点、改善すべき課題は多々ありますが、いずれにしてもこれだけの短期間でこれだけの街が出来上がってきたのは、非常にいいタイミングで計画が進められてきた結果だろうと感じています。
 結果的にみると、バブル景気の波をかぶる前に幕張新都心の計画が出せたことは、非常に良かったと思っています。業務研究地区にも立派な企業に集まっていただけました。もっか自社ビル、ビルテナント合わせて二五〇社を数えます。
 幕張メッセも、日本経済全体の不況の波をかぶっているとはいえ、これまでに入場者総数が五千六百万人を超える、日本最大規模のコンベンションセンターに成長しました。また住宅地区ベイタウンも、総人口二万六千人規模の計画のうち、すでに六千四百人が入居されて、コミュニティを形成しつつあります。
 昨年秋、米国サンノゼの市長さんがシリコンバレーの企業トップの方々と、幕張の視察に訪れたんですが、短い歳月でゼロからこれだけの都市を創ったというのは世界にも例がないのではないか、と大変驚かれていました。
蓑原■あのタイミングで日本にメッセを創ろうというのは、まさに大いなる英断だったとしか言いようがないです。さらには建築家に槙文彦さんを選んだというのが素晴らしい。あのデザインのクオリティは、その後の幕張に多大な影響をもたらしてきていると思います。
沼田■本当にそう思います。「メッセ」という言葉を知っている人など、日本にいくらもいないという状況からのスタートですからね。私の家にも、県民の方々から「メッセとはどういう意味か」というご質問の電話があったりもしたぐらいです。
 政財界においても、まだメッセへの理解はほとんどありませんでした。我々が海外の状況など説明しても理解を得られるのがなかなか難しくて、これはもう世界を見てもらうしかないなということで、例えばアメリカのコンベンション施設が地域経済にどれだけ貢献しているかを、県会議員や財界の方々に実際に見てもらいました。何回か視察を繰り返すうちに、確かにこれも千葉県の一つの経済振興策になりうるかというふうに、徐々に理解が得られていったわけです。
 槙先生には大変いい設計をしていただきました。今後末長く、幕張新都心のシンボルとなるにふさわしいデザインであり、幕張の文化的財産となっていくでしょう。
「メッセ」という言葉も、また幕張メッセの存在そのものも、わずか数年のうちに県民はもとより全国の方々、さらには世界からの高い認知も得られ、新産業三角構想の核になるものとして計画したのは大成功だったと思います。
伊藤■自動車ショーで華やかにオープンした幕張メッセが、一気にメッセという言葉を浸透させ、千葉県=メッセというイメージを鮮やかに披露しましたね。
 私も平成元年の、メッセのオープニングイベントの一環として、世界住宅国際連合会議(IFHP)でお世話になりましたが、世界中から集まった参加者たちが、とても驚いていました。海に面した広がりのある造成地に公園、ホテルなどがわーっと立ち上がって、大きなエネルギーが感じられた。日本経済の底力を感じさせるものでした。
沼田■平成三年に、銚子に立派な魚市場ができたんですが、これが「ウォッセ」というんですよ。(笑)魚とメッセの造語ですね。県民にとっても大変にシンボリックで身近なものになったんだなと改めて感じています。
蓑原■やはり人口六百万人を抱える県としては、自立的な都市圏を形成できる力を内部に持っていなければならない。幕張メッセを抱える幕張新都心は、やはりそのシンボル都市としての役割を担うに十分な存在になっていると思います。県全体のイメージをも変えたんですから、経済効果のみならず、これはもう大きな戦略効果を上げているでしょう。
沼田■専門機関に調査してもらったところ、幕張新都心の経済波及効果は、毎年の事業活動費・消費活動費の総額は八三〇〇億円で、その国内の生産誘発額は一兆一一四七億円、雇用効果は延べ八万九千人、県税・市町村税の税収効果は一八五億円にも達しています。
蓑原■目に見えない波及効果を含めれば、そんな数字どころの貢献ではないでしょう。


第二ステージの都市づくりへ


―――さらに今後の計画について、知事のほうから概説していただき、幕張新都心の第二ステージに向けた抱負、期待などへと話を展開させたいと思います。

沼田■幕張新都心もいよいよ十年目に入り、始動期が一段落して、第二ステージに入ったと考えています。今年五月には「幕張新都心・第二ステージ推進方針」を作成しました。第二ステージの方針としては、国際交流、産業創出、文化創造の、三つの都市像を掲げており、これからの街づくりの柱として盛り込んでいく計画です。
 第一ステージからの大きな課題としては、かつてない景気低迷の波を受けて、まずタウンセンター地区に予定されていた商業施設の立地が遅れていること、そして先ほどの話にも出ました、拡大地区への企業立地の停滞ですね。この二つの課題の解決が残されています。
 タウンセンター地区については、街の中心となっている国際大通りに沿って、海浜幕張駅北側の区画の一部に、従来の分譲方式だけでなく貸付事業制度を適用することによって、商業施設の誘致を積極的に進めたい考えです。
 拡大地区については、この八月に第一回拡大地区将来ビジョン検討委員会を開催して、今後の整備のあり方の検討を始めており、来年秋を目途に方針をまとめていく計画です。
 幕張メッセは、フランクフルト、シンガポールのコンベンション都市と姉妹提携を結んで、さらにグローバルな展開を目指しています。
伊藤■世界に翔ける新たな三角構想ですね。
沼田■ラスベガスにも世界的なコンベンション都市が成長していますが、そうした世界的レベルの都市とも交流が活発になっており、世界から注目される都市になっています。
 とは言え、予算面での引き締めは大変厳しく、最後まで切り詰めに切り詰めて進めてきました。メッセの建設には第一期に四五〇億円、昨年完成の第二期増設に二二〇億円、合計で六七〇億円かけていますが、もしこのタイミングが少しでもずれていたら、数倍の予算がかかっていたと思います。
 当初はまだ日本に本格的なコンベンション産業は根づいていなかったので、高い予算には反発があって当然なわけですが、幕張メッセが完成したことが契機となって、この間に地域経済振興への理解は相当浸透してきたと思います。しかしやはり景気の低迷もあり、法外な予算をかけられないことは致し方ないところです。
 住宅地区の幕張ベイタウンは、中庭形式の中層集合住宅・パティオスが、デザインもさることながら幕張方式と呼ばれる分譲スタイルで注目を集めてきましたが、さらに高層・超高層街区の建設も進んでいます。首都圏の住宅需要が冷え込んでいるなかで、ベイタウンの人気は相変わらず好調です。
蓑原■ベイタウンは、夏の街区中庭でのビアー、ワイン・パーティーだとか、クリスマスの飾りつけコンテストだとか、新たなコミュニティ創りの試みが始まりつつあるような気がしますね。なんといっても、市立の打瀬小学校をはじめ、ユニークで実験的な教育環境が整えられているのが、ベイタウンに来る住民にとって最大の魅力でしょう。
沼田■小学校は、教員全員が自薦で集まった人なんです。初代校長の溜道代先生がコミュニティの拠点として学校を街に開放していこうと、様々な働きかけを行ってくださいました。マスコミなどでも、非常に話題になった学校です。
伊藤■やはり幕張の今後は、メッセをいっそう盛り上げ、ベイタウンを大事に育てていく。そして学校と公園をさらに充実させていくことだと思いますね。
 特にこの広大な公園は重要です。今後は公園を中心として色々なことを考えていくべきでしょう。
沼田■県立の幕張海浜公園は、日比谷公園の四倍の総面積を持っています。貴重な土地ですが、かなりの割合を公園に当てました。
伊藤■この公園全体の構想を二十一世紀を踏まえて、常にチェックして検討していくことがキーになるような気がします。これからの品のいい街づくりに、公園の質は大いに影響しますよ。
 例えばミュンヘンは、イングリッシュ・ガーデンという公園が素晴らしい。ミュンヘンの街中に縦横に広がる公園で、高低があり、木陰があり、何より水が流れているのが最高です。四季折々に市民が気軽に集まってきて、散策をしたり、休息したり、自然と触れ合いながら思い思いの時間が持てる。ミュンヘン最高の資産だと思います。
 公園がよくなれば、近隣の商店や街全体が影響を受けてよくなる、そういう相乗効果が生まれます。
蓑原■住宅のデベロッパー企業のほうでも、この公園を「セントラルパーク」などと称して、公園との関係性を考えながら、住宅地区の開発を考えているようですね。今はまだ公園の近くの区画が未開発なこともあって、まだまだ寂しい感じがしますが、これからに期待したいところです。
伊藤■先ほどのタウンセンター地区への商店誘致も大切ですが、公園沿いのエリアですね、こういうエッジの部分に、品のいいレストランとか喫茶店とかブティックとかが建ち並ぶといい雰囲気になりますよ。
蓑原■さらに日比谷公園のように、公園の中にオープンテラスのレストランなんかが出来ると素敵なんですけれどね。
沼田■公園は、まだ未整備な部分が残っていますが、ベイタウンの海側の一画には、デンマークのレゴランドが進出する予定です。先日も県会議員が、現地のレゴランドを視察してきましたが、非常に評判がよかったです。ディズニーランドに続けて、千葉の新名所になると期待しています。
蓑原■それは面白い。県の公園の中に、民活型テーマパークが共存していくわけですね。


東京湾岸という視野に立つ


―――幕張新都心を発展させていくうえで、千葉県はもとより首都圏全体の中での幕張、さらには世界の中での幕張という大きな位置づけで、都市の将来像を考えていく必要があると思われます。その辺りについてお考えをお聞かせください。

沼田■より大きな観点から、今後、幕張を発展させていくうえで、東京湾岸という視点も重要だと考えています。
伊藤■東京湾というのは、世界の中でもいちばん大事な経済的資産です。また閉鎖系水域の中に二千万人もの人間が暮らし、経済活動を行っているという点からも貴重な地域である。生態学的にここを維持していくというのも、世界的課題だと思うんです。
 また、これからの都市の住まい方の一つの課題として、海の近くにどうやって住むかということはありますね。二十一世紀には、東京湾のウォーターフロントの使い方というのを、もう一度再点検する必要があると思います。東京湾岸というのは、既存の古い商店街というのが結構残っているんですね。そこへうまくアクセスするようなかたちで、海側の埋立地に新しい住宅を供給していく開発が増えていってほしいです。当然、緑もたくさん供給し、都心に近い都市型の地域ということで、文化的な雰囲気、知的な雰囲気を取り込んでいってほしい。また高齢者も快適に暮らせるような配慮もほしい。幕張が、そのモデルを先駆けて追求していってくれるに違いないと期待しています。
蓑原■戦後、こういうスケールで作られた都市というのは、結局、新宿副都心と幕張ぐらいでしょう。コンベンション、産業、教育、住宅などの複合的な機能を併せ持った幕張新都心は、善かれ悪しかれやはり、二十世紀のモデルを作ったんですね。
伊藤■それは疑いようもありません。間違いなく二十世紀のモデルです。
蓑原■次に問題なのは、二十一世紀に生き残っていくために、何が必要かということです。公園も大事だが、もう一つ、折角の環境にありながら、海の香りが欠けているのが残念でなりませんね。当初は、ベイタウンに運河を引き込もうというアイデアなどもありましたが、やはり現在の河川行政の協力が得られず、あきらめざるを得なかったという経緯もありました。
 今後、マリーナ計画もあるようですが、カリフォルニアのロングビーチやパサデナのような、海を生かした都市へ変貌していってほしいところです。
 最近では、週末の幕張の浜は、サーファーがたくさん訪れてすごいにぎわいですよ。しかし施設がないから、みんな道路に停めた車の陰なんかで弁当を食べている。もったいないですね。人工とはいえ海浜があるというこの自然環境は、圧倒的に差別化できる価値ですから、なんとか生かしていってもらいたい。
伊藤■ベイタウンの側は海浜公園との関連でうまく進めていけばいいと思いますが、この幕張の地図でみると、特に拡大地区の海側ですね、メッセやマリーナ予定地域のさらに西側の広大な湾岸地域をうまく整備して使っていくことが重要だという感じがします。
蓑原■これから都市型の開発を志向しようとする場合には、サステイナブル・デベロップメント=持続可能な開発という考え方はどうしても必要です。環境についての明確なデザイン意思を持つということですね。
 我々がこれまでやってきた開発は、やはり二十世紀型の開発であって、環境志向は弱かった。これからは、木、水、風などのデザイン志向が必要です。
伊藤■浜田川や花見川も含めて、全体のランドスケープをもう一度見直してほしいと思います。水際にもっと木や緑がほしいですね。
 水質保全、環境保全、そして水際の文化的な都市作りを先駆けていってほしい。幕張メッセを訪れる外国人に対しても、カルチャーショックを与えられるぐらいのインパクトでね。
 街の中も、木陰でちょっと休める所を作るとか、仕上げはまだまだこれからでしょう。文化的な臭い、そして生態学的な配慮の両面からのデザインが重要だと思います。


二十一世紀へのにぎわいが課題


―――最後に、現状の幕張新都心への提言など含めまして、ざっくばらんなご意見をお願いします。

蓑原■文化の臭いは重要ですね。都市性の決め手となるのは「にぎわい」だと思うんですが、そこの仕掛けがまだまだ弱い。やはり文化的な仕組みがほしい。そして遊び場がほしい。
 千葉県の中では、西千葉の一部のエリアにおいしいレストランなんかがあって、私は個人的に注目していますが、そうした魅力ある「個店」を幕張にどんどん引っ張ってくる工夫が欲しい。企業の進出じゃなくて、元気印の個人の進出を応援して欲しいですね。いわばサービス業のベンチャー支援ですよ。
沼田■ベイタウンには、ユニークな店が結構出てきています。千葉県初のネパール・チベット料理レストランなんていうのもあるんですよ。(笑)
蓑原■イタリアンレストランなんかも、夜半まで結構にぎわっているようですし、最近出来たお惣菜屋さんも評判いいようですね。
 ああいうヒューマンサイズのにぎわいが、ビジネス街のほうにもほしいです。先ほどの賃貸事業制度の導入というアイデアは大いに賛成です。とりあえず暫定利用でいいと思うんですよ。にぎわいによって都市性を創りあげていくことが必要です。
伊藤■いっそのこと、超高層の住宅棟の一つでも、企業ビルのど真ん中に持ってくるぐらいのことをしてもいいんじゃないでしょうか。
 今の機能分離型のゾーニングを思い切って見直して、機能の混在化を図っていくことは、今後是非とも検討課題に組み入れていただきたいと思いますね。
 スーパーブロックとセットバックで、オフィス街に空地が出来ているのはいいが、今のままだとつながりが出来ていかない。この辺りも土地利用を柔軟に見直して、例えば小さなキヨスクをあちこちに出していいとか、いろんな策がほしいです。
蓑原■今までの都市開発は、高度成長の大波の上でサーフィンをしていただけで、自力遊泳と言えるものは少ない。プロジェクトをきちんとコントロールし、推進していっている例はまだない。だから幕張が積み重ねてきた「計画」とか「実験」は非常に意味があると思います。これからも、小さい実験を繰り返し、試行を積み重ねていってほしい。
 ベイタウンが善戦しているのも、最初のコンセプトがいいからでしょうが、これも限界にきている。さらに新たな実験やアイデアを必要としています。マクロ的な攻め方の一方で、ミクロな攻め方が鍵を握っていくことになるでしょう。
伊藤■これからは法律なんかの枠組みも、あっけらかんと取り払っていけたら面白いだろうと期待しています。容積率なども、独自の許容度を持っていくとか、そういうこともありうるのではないか。将来的には、地域はそうして独自の戦闘力をつけていくしかないでしょう。
蓑原■華僑なんかもどんどん取り込んでいくような、多角的な投資家を集めていくやり方も課題だと思います。
伊藤■東京では無理なことも、なんだか幕張だったら出来そうな気がしますよ。
沼田■皆さんの期待に沿うよう頑張ります。

―――貴重なご意見どうもありがとうございました。

   



■千葉新産業三角構想
沼田知事就任直後の昭和57年始め頃から、成田国際空港都市、かずさアカデミアパーク、幕張新都心を、千葉県の新しい産業拠点として位置づける開発構想の検討が始まった。
「千葉新産業三角構想」と名付けられたこの構想は、内陸部への先端技術産業の導入推進による工業構造の高度化と、均衡のとれた地域構造の実現を目標とし、「学術・教育」「研究開発」「国際物流」機能の重点的集積、整備を図ろうとするものであり、各拠点を新しい幹線道路体系で結ぶものである。

ぬまた・たけし●千葉県知事
1922年生まれ。1948年千葉県庁入庁。千葉県商工労働部長、農林部長、総務部長を歴任後、75年千葉県副知事に就任、81年退任。同年、千葉県知事に就任。現在に至る。

いとう・しげる●都市計画家、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授、東京大学名誉教授
1931年生まれ。MIT・ハーバード大共同都市研究所客員研究員、東大工学部都市工学科教授、東大先端科学技術研究センター教授などを経て現職。国土審議会委員、都市計画中央審議会会長なども務める。幕張新都心タウンセンター地区事業化調査委員会委員長(85〜86年)、千葉県の新しいビジョン基礎調査委員会委員長(92年)。著書『ウォーターフロントの時代』『都電型都市空間のすすめ』他

みのはら・けい●都市プランナー、幕張新都心住宅地区事業計画調整委員、蓑原計画事務所所長
1933年生まれ。60年建設省入省。茨城県住宅課長、都市計画課長、建設省都市局土地利用調整官、大臣官房政策企画官、住宅局住宅建設課長などを歴任し、85年退職。蓑原計画事務所を設立し、幕張新都心の住宅ベイタウンをはじめ、数々の都市計画、開発事業に参画。幕張新都心都市環境デザイン調査副委員長(86年)、同・住宅地基本計画及び事業計画策定調査副委員長(89〜90年)を歴任。現在、同・住宅地区事業計画調整委員、住宅地区計画デザイン会議特別委員、住宅地区事業推進協議会副会長を務める。

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