―――そうした時代の流れを受けまして、幕張新都心の計画が具体化されていったわけですが、この計画そのもの、また事業化手法などについてはどのようにお考えでしょうか。
伊藤■当時の流れからみると、昭和五十年代から「でかいことはいいことだ」といった非常に明快な基本方針が千葉県に自ずと出来ていって(笑)、それがいいものを生んできたという印象を受けます。
幕張新都心計画なんかは、まさにその最たるものと感じますね。
蓑原■とてつもなく大きな変化の波を、一瞬の間に受けてきた千葉県だからこそ、「計画」というものが県政に大きな意味を持ってきた、そういう観を強く持っています。昭和五十年代までの二十年間は、余りの変化の勢いに計画もへちまもなかったけれど、それ以降、昭和六十年代から平成へと経済が成熟化を迎えていくなかで、「計画」は千葉県の目指す構造改革に、大いに機能を果たしてきたと思うんです。
沼田■おっしゃるとおり、幕張新都心というのは、まさに「計画」の勝利によってもたらされた成功例だと私どもも自負しています。
そもそも幕張新都心計画の背景には、昭和五十八年に構想された「新産業三角構想」というものがあります。これは、成田国際空港都市、幕張新都心、かずさアカデミアパークの三つの拠点整備をしながら、これらを高速道路で結び、千葉県の成長の拠点にしようということで始めたわけです。その中で幕張新都心は、職・住・学・遊の機能を併せ持った、まとまったスケールの街を創っていこうという計画で始めたわけです。
伊藤■昭和五十八年あたりには、横浜ではみなとみらい、東京は臨海副都心の計画を出していましたが、まさか千葉の幕張新都心が、これだけの規模で成功を見るとは失礼ながら予想外の展開だったと思います。(笑)ところが結局、幕張がいちばん早く造成を進めて、分譲もどんどん進めましたよね。
蓑原■そのタイミングたるや、じつに絶妙でした。
伊藤■役人の仕事とはとても思えないです。アメリカの不動産屋のようなセンスですよ。高値高値で土地が推移しているときに、見切り発車で「ここで売ろう」と言った人がもし企業庁の中にいたとすれば、その読みのタイミングはすごい。(笑)
蓑原■それはおそらく、千葉県企業庁という組織の体質が大いに関係していると思います。経済社会の動向に対して、これだけ敏感に動ける役所の組織というのは、あまり例がない。企業庁がもともと持っている民間的なセンスと弾力性が、うまく発揮されたんでしょう。
伊藤■昭和三十年代の大阪府企業局が、千里ニュータウンや泉北ニュータウンを開発した時もすごかったですが、あれも事業センス抜群でしたね。
蓑原■ええ。しかしあれは、大阪府庁あっての企業局で、やはり公共事業の延長という印象なんですが、こちらはもっと企業庁独自のやり方といいますか、民間とのパートナーシップなどのセンスをうまく生かしているように感じるんですよ。
沼田■企業庁のセンスをお褒めいただきましたが、(笑)幕張新都心の土地分譲がうまく進んでいった要因のひとつとしては、まず幕張新都心の地主はすべて千葉県だったということと、相対的に価格が安かったということでしょう。事業的センスが多少とも発揮された点といえば、例えば建物を建てるまでは土地は貸しましょう、土地代は建て始めてからでいいですよとか、そういった柔軟な対応にあったかもしれませんね。
蓑原■都市開発というのは共同事業ですからね。官だけでも民だけでもできない。民間とのつながりの意識や情報交換の大切さを認識しながら、なおかつダーティーな所は一切なく立ち上げてきたというのは、素晴らしいことだと思います。日本社会のなかで、このような手法で公共的な事業開発を行うということは、非常に難しいことなんです。
例えば、幕張の業務研究地区は、ほとんどが自社ビルとして分譲されましたが、もしもこれが賃貸ビルだったとしたら、今の不況下では壊滅的にやられていたでしょう。自社ビルで行こうというのは、最初から決断されていたことなんですか。
沼田■それは最初から意図していました。千葉県に本社機能を持ってくるということは、県の財政にとって大変重要な課題でしたからね。千葉には本社機能が少なかったんです。当時は経済が上り調子でしたから、幕張もご他聞にもれず、狙いどころの土地として様々な方面から興味をもたれていました。しかし、あくまでも我々は計画に乗っ取った戦略的な立地を進めていきたかったのです。
相手が大手企業でも「東京本社千葉支店はお断りだ」と千葉県企業庁も強気に出まして、「幕張に進出したければ、東京本社が直接移転してください」と直接交渉しました。もちろん丸の内、大手町などにしっかと本社を構えている企業がまるごと本社を移すのは無理でしょうから、その場合には「第二本社としての機能にしてください」とお願いしました。
当時はそのように強気に出て、業務研究地区はもとより、隣接する拡大地区も順調に分譲が決まりましたが、その後バブルがはじけてしまい、拡大地区への進出予定企業は、土地を確保しているのに進出できないという事態になってしまっています。
伊藤■強気に出られたとはいえ、ライバルの東京や横浜の埋立地に企業ビルが建つということは、だいぶ意識されましたでしょう。
沼田■それはもちろんです。しかし幕張メッセがオープンして、その集客や話題性のインパクトが計画の実現に一気に拍車をかけましたね。