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技術史の視点から考える■
デジタル社会の「ハードル」


村上陽一郎


「権威性」を保証するものはどこにもなく、
断ち切れないメールの「無責任」な連鎖が続き、
「不注意」をせぬよう気を付けながら、
わたしたちの「試行錯誤」のうえに、技術の進歩が築かれていくのだ。



かつて私は、四百字詰めの原稿用紙よりも、
二百字詰めのそれを好んだものだった。


 この原稿を、私は「98」に仕込まれた「ワード97」というソフトで書いている。書き直したいと思った個所は、削除キーを押すだけ、先に書いた個所を、少し後にずらせたいと思えば、移動の手続きをするだけ。切り張りも、かつて書いた原稿からの一部借用(この原稿ではそれはないが)も自由自在。出来上がれば、おそらく「ユードラ」という通信用のソフトを通じて、添付文書にして刊行元の編集部に送るだろう。そのままfaxとして直接送ることもできる。もとの原稿は、紙面で見たければ、印刷ボタンを押すだけ。刊行する側の紙面レイアウトが判っていれば、その通りに、つまり紙面での仕上がりそのままの状態で見ることさえ可能である。凝る人なら、それで句読点の使い方、改行の仕方まで、自分で工夫することもできる。保存の手続きで、確実に保存される。コピーをとっておく必要もない。
 昔だったら、原稿用紙の桝目をペンで一字一字埋めていく。途中で書き直す必要が生じたときには、そして不運な場合には、折角書いたそのページ全部を屑篭にほうり込んで、書き直す。だから私は、四百字詰めの原稿用紙よりも二百字詰めのそれを好んだ。書き直す時の量が少なくて済むという、極めて即物的な理由からであった。出来上がったら、揃えてクリップで留め、ページ番号を書き込んで(二百字詰めだと、簡単に80枚位にはなる)、封筒に入れ、重さを計り、料金に応じた切手を貼って、ポストまで出しに行く。大切なものなら、郵便局で書留にする。コピーをとりたければ、さて、コピー機もないころは、それも不可能だった。だから、しっかりした刊行元なら、校正の朱の入った手書き原稿を、必ず書留で著者に戻したものであった。



「まるっきり出鱈目な情報や意見が、
書物として刊行されるはずがない」と、
私たちは信じることになっている。


 この状況を比較して、どちらが便利になったか、と問えば、どうしたって、今の方が便利だと答えざるを得ないだろう。
それどころではない。最近のコピー機メーカーのなかには、原稿造りから製本までの一貫した作業を引き受ける器材とソフトを発表しているところが増えて来た。その機械に任せておけば、コンピュータで原稿を書くと、それにハード・カヴァーを付けて、きちんと背表紙まで印刷された書物を、そっくり作り出すことも可能である。通常の編集・印刷・製本の過程を通じて造られた書物と全く変わらないものが、家庭でさえ出来てしまう。仮に私がそうした本を造って、書店に出かけて行って、販売棚にそれを置かせてもらうことができたら、それは「書物」として充分に通用することになる。違うのは、出版社を通じて、取り次ぎの流通ルートに乗っているかいないか、というところだけなのである。もちろん昔から「自家本」とか「私製版」とか呼ばれる書物はあった。しかし、ここではそれが極めて安直かつ文字通り他人の手を一切通ることなく、私的に刊行されることになるのである。
 私たちは、書物といえどもいい加減な信用の置けないものが数多く市場に出回っていることをある程度は理解している。しかし、また、社会の組織や制度のなかで、書店に売られている書物が、それなりの過程を経て世に出されたものである、ということに、暗暗裏に信頼を置いている。その信頼が、実を言うとあまり根拠のないものだった、という事実はあるにしても、である。
 しかし、上のような事態が生まれてくると、書物というものの持っている社会における「権威性」というものが全く失われる可能性のあることが判る。もちろん繰り返すが、今でも、そうした「権威性」は虚構だと言ってしまえる側面をもっている。たかだか、書物が市販されるまでに社会の中で通らなければならない幾つかの一見大きく見えるハードルがあるおかげで、そのハードルを超えてまで、まるっきり出鱈目な情報や意見が、書物として刊行されるはずがない、と私たちは信じているが、あるいは信じることになってはいるが、しかし、その信念は必ずしも絶対的な保証によって裏書きされているわけではなかったからである。しかし、上のような事態は、まさしく必ずしも保証されてはいないが、社会通念として認められて来た書物の「権威性」に対する真っ向からの挑戦になるはずである。
 しかも、実は書物という形態を離れてみれば、こうした事態はすでに明確な形で起こっている。例えばインターネット上でやりとりされる情報が、信頼するに足るものであるかどうか、私たちは、常に自分の力で判断するよりほかにない状態に追い込まれている。最も良い例は、ウィルスを巡る情報である。ちょうど「幸福の手紙」さながらに、これこれしかじかのメールがきたら、ウィルス仕込みですから、絶対に開けないで廃棄して下さい、そしてこのことは重要な情報ですから、あなたのメール仲間に是非伝えて下さい、というメールがしばしばネット上を走る。善意のこともあるだろうし、この情報自体が悪意のこともあろう。しかし、私たちは、この種のメールの「連鎖」をどこで断ち切るべきか、しばし考え込んでしまう。



流動的な情報となると、一体どの時点での
ヴァージョンをもって当該の情報の真の形態
とすべきなのだろうか。


 あるいは。ウェブ上で開かれているホーム・ページにアクセスしたときのことを考えてみよう。通常の百科事典や人名事典などではどうしても知ることのできないようなマイナーな人物に関しても、マニアックな研究者がいて、その人物に関する情報をホーム・ページを造って流している場合がある。これはときによっては、ウェブ上での検索の醍醐味を味わうことができると感じるほど、有り難いことがある。しかし、振返ってみると、そこに載せられている情報が確かなものである保証は、実はどこにもない。そうした情報源を使って、例えば新しい人名事典の項目執筆をしたときに、とんでもない目に会うという危険を私たちは覚悟しなければならない。振返ってみると、すでに刊行されている人名事典や百科事典の記事を私たちが信用するのは、編者がいて、編集委員会があって、出版社の編集者がいて、校閲者がいて……という、書物が出来あがって市販されるに至る間の過程に関与する人々の存在を信頼しているからである。ネット上の情報は、そうした手続きが全く私的、かつ恣意的であり得るのである。
 その上ネット上の情報に関しては、私たちは、常に流動的であることを覚悟しなければならない。確かに書物の形態をとった情報は、著者がそれを書いた時点までのものであり、しかも通常は、著者が書き上げてから一般の書店に並ぶまでの間に、上に述べたような経過をたどるのに要する時間が月の単位で必要になってくる。またいったん出版されてしまえば、訂正したい事項があっても、次の増刷の機会までは待たなければならない。増刷されない書物は、永久に訂正の機会を失うことになる。逆に、ネット上では、文字通りリアルタイムで情報を更改することができる。このことは時間に情報が追いつきやすいという意味では大きな利点かもしれないが、どの時点でのヴァージョンをもって当該の情報の真の形態とすべきか、という点では、混乱しか期待できないという欠点を露呈している。



専門領域において、不可欠の情報の
収集先としてのネットという概念は、
むしろ語義矛盾に相当してくる。


 もう一つ、これは、部分的には過渡的な問題かもしれないが、誰に読まれることを期待するか、という問題がある。例えば、大学の学生は、大学が正式に用意した告知板の上に発表された情報については、知っているものとみなされる、という不文律がある。たまたま読まなかったから自分は知らなかった、という言い訳は通用しないことになっている。逆に見れば、大学側は、告知板上の情報管理に関しては百パーセントの責任を負っていることにもなる。そこに正当でない情報が紛れ込んでいることは許されない。しかし、ネット上の情報に関しては、そうした管理責任を持つエージェントが存在しない。
 このことが効いてくるのは、例えば次のような場合である。HIV訴訟の一つの争点は、医師側がどの時点で血液製剤の危険を知ったか、という点にある。こうした場合には、例えば、大学の告知板と学生との関係と同じように、アメリカのしかるべき機関の報告に掲載されていた情報を読まなかったこと、あるいはそれに留意しなかったことが、医師の責任として問われることもあり得ることになる。
 ではネット上に載った情報に関して、今後私たちはどのように考えたらよいのだろうか。ネットは確かに有力な情報提供源である。しかもすでに見たようにその即時性は最大のメリットでもある。情報の公開性に関しても、従来のメディアにない広汎な訴求力をもっている。しかし、そこに載った情報を、ある領域に関して責任あるすべての人々に読まれることを期待すべきであろうか。あるいは読んだ上で信頼することを期待すべきであろうか。
 過渡期である現在には、明らかにこの期待は過剰である。様々な社会的活動の領域において、そこに関係する人々がすべてネットに繋がれていることを期待することはできないからである。しかし、ではネットがその点のバリアーを克服し、事実上完全な普及度を享受できるようになったら、上の期待は正当なものになるか、と言えば、明らかに答えはノーである。何故なら、すでに述べて来たように、ネット上に置ける情報の「権威性」が保証されないからである。ネットの「利点」はむしろ、そうした「権威性」から解放されていることだった。一方、上に見たような責任を伴うような「情報」に関しては、どこかで管理による「権威性」が保証されていなければ無意味である。ちょうど大学の告知板が大学によって厳密に管理されているように。したがって、そうした専門領域において、必要不可欠の情報の収集先としてのネットという概念は、むしろ語義矛盾に相当する。



新しい技術の所産が現れたときに、
私たちは、それを使いこなすために
いろいろな手を打つのが常であった。


 このうように見てくると、現在のネットを中心とした情報流通の社会は、どう考えても、それだけで、充分であるとは言えないはずである。必要に応じて、オープンなネットと、閉鎖的で充分管理された「ネット」(それをしもネットと呼ぶかどうか、問題は残るだろうが)との使い分けも不可欠になるだろうし、そのためのインフラや、海図も必要になるだろう。
 私たちは、新しい技術の所産が現れたときに、それを使いこなすためにいろいろな手を打つのが常であった。例えばアメリカの幾つかの州では、自動車が街路を走り出したころに、「赤旗条例」を制定した。これは共産党とは無関係である。要するに自動車の前方Xメートルのところに赤旗を持った先導者(人間)が歩かなければならない、という趣旨のものだった。その主たる目的は街路にいる馬を驚かせないためであった。今から思えば噴飯ものでも、当時としては切実な問題であったに違いない。
 あるいは、戦前の電気洗濯機をお使いになった方は覚えておられよう。攪拌式の洗濯槽の上にモーターと連動するローラー式の搾り装置がついていた。スイッチを入れると、ローラーが回転し、その間に洗濯物を差し入れると、搾られた洗濯物が向こう側に落ちるという仕組みである。ところが洗濯物のたるみなどを直しながらローラーに巻き取らせていると、手指がローラーの間に苦もなく入ってしまう。安全装置が一応あったが、片手をローラーに取られつつ咄嗟にもう一方の手で、安全装置のハンドルを叩く等ということはできるものではない。事故が続いたために、戦後の一時期は、この装置だけは手動という形のものが出回った。今は、このタイプのものはすっかりなくなってしまった。そして遠心力を利用した搾り方法に、乾燥機という組み合わせに落ち着いた。かなりの数の被害者があったに違いない。かく言う私もその一人、姉は今でも残る傷を負った。そのころは自分の「不注意」を責めるほかはなかったが、今日ならPL法の対象になるだろう。こうした「試行錯誤」の上での「進歩」もまた、技術の定着、普及に不可欠である。
 私たちは、どれほどつまらないことのように見えても、一つ一つ、こうしてハードルを乗り越えていかなければならないのである。


むらかみ・よういちろう●科学史・科学技術論、国際基督教大学教養学部教授、東京大学名誉教授
1936年生まれ。東大教養学部教授、同・先端科学技術センター・センター長等を経て、現職。科学史・科学哲学、科学技術のパラダイム論に、独自の分析的・批判的視座で取り組む。新聞雑誌・教養番組などでも幅広く活躍。著書に『近代科学と聖俗革命』『科学史の逆遠近法』『科学者とは何か』『文明のなかの科学』など

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