しかしいくらコンピュータが普及しても、都市が一方的に電子空間化されていくことはない。卑近な例だが、今きわめて興隆を誇っているコンビニは、あきらかにデジタルなネットワークに支えられている。コンビニのレジでバーコードを読み取ると、それが本社に直結していてたちまちその店舗の品動きが分かる。しかし次には商品を補給する物流が、情報の流れとは反対の方向に生じる。実体的な都市との緊密な関係なしにはコンビニは成立していないということになる。物流は都市固有の交通渋滞と無縁ではない。つまりデータは電子空間を飛んでいくにしても、実体的空間(道路)としての都市との関係はこれまでに商店よりも旺盛なのである。都市はこうしたパラドクスなしには動いていかないのだ。
さらに都市が電子空間に浸透されるとともに、従来の都市にあった公共性と私性との倫理的な分節も変質する。もう一度、コンビニの例をあげておこう。二十四時間稼動のコンビニの特徴は私的な生活の延長であり、いわば自分の冷蔵庫の代わりをしている。もし近くにコンビニがあると、ある種の商品は買いおく必要がない。それは私的な生活が公共的な都市にしみだしていることになる。同じようなことは携帯電話でも経験する。電車のなかで使われるとうんざりするが、聞いているとどうでもいい私的な些事が人前で語られているのだ。こうなってくるとこれまでは公共的であった都市に「私」が溢れることになる。これは公共性と私性の分節に秩序の基盤をおいてきた都市の倫理的構造が壊れることになる。都市はかつての倫理的な秩序を失い、内部と外部、公共性と私的身体とが混沌として混じりあうことになる。都市が溶解していくように見える。
時代とともに技術が変化していくのは当然であるし、それに応じて人間の共同化も、身体空間のありようも変わってくる。このことは認めねばならない。都市は世界化する。都市の世界化の主役は資本である。世界化とともに貧富の差がいちじるしくなった実例もある。都市の世界化は決して幸福の約束ではない。
もし資本が都市を貫く力だとすれば、都市の生活者の方でも別の力を出すにちがいない。たとえばいったんはネットワークを経過してほとんどゼロ化した身体を、今どのように具体的に把握するかもその努力のひとつである。希薄になった身体空間をいかに把握しなおすか。しかも簡単に身体が回復できるとは、だれも思ってもいないのである。デジタルな空間に浸透された都市に、あらたな哲学、人間学が必要になりつつあるのが現状である。
(1997年秋)
たき・こうじ●評論家
1928年生まれ。千葉大学教授を退官後は執筆活動に専念。哲学的論考と芸術的感性を核に歴史、思想、芸術を論じる。著書に『眼の隠喩』『生きられた家』『欲望の修辞学』『天皇の肖像』『神話なき世界の芸術家』『都市の政治学』『シジフォスの笑い』他多数