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■対談■
都市の意匠、都市の精神とホスピタリティ(2)



「もてなし」よりも「ふるまい」「しつらい」が
ホスピタリティの感覚に近い。


松岡■よく日本の地方都市へ行くと、「いやぁ、気遣いがない県民性で」とか、「人見知りをする県民性なので」という説明を聞きますよね。「でも、気はいいんですよ」とか、「恥ずかしくて表に出せないだけなんだ」とか。

井上■それ、常套句になってますね。

松岡■地方の都市ですぐ言われますよね。よく考えてみると、相手は、「先生方、東京からいらして、東京ではこうじゃないだろうけれども、いま我々は、すぐそうはできませんよ」ということをちゃんと言ってくれてるようにも思える。謙譲、謙遜の中に便利な申し訳がしっかり含まれてる。

井上■具体的に言えば、テレビの映りが悪いとか、つまらんことですけどね。「東京と同じようなことは望まないでください」というのを、言外に伝えたいと。

松岡■そういう申し訳が一種のホスピタリティとしてとらえられているような風土が、日本そのものにありますよね。
 「もてなし」という日本語は、源氏物語にもたくさん出てきてますけれども、「バチをもてなす」というように、器物や調度をもてなす、という言い回しで何度も出てきて、あれっ? と思ってたんですよ。
 「もてなし」というのは、実際に「持って成す」という言葉なんですよね。つまり、物を扱う――ハンドリングする、上手にオペレーションするという言葉。器用という言葉がありますよね。器を用いると書いて、器用と読む。字面は、やっぱり道具を扱う感覚でしょう。それと同じで、もてなすとか、もてなしというのも、「物さばきがうまい」ということだったと思うんですね。
 日本のもてなしという言葉の中には、最初、ホスピタリティの意味合は入ってなかった。じゃあ、ほかに当たる言葉は何かなと考えると、「ふるまい」とか、「しつらい」という言葉が浮かんでくるんですね。

井上■それが、来客が来たときの室内調度とか、そういうことにつながるんでしょうかね。

松岡■そう。ふるまいという言葉も、実際の字面は、体を動かす、パフォーマンスということなんだろうと思うけれども、「大した振る舞いもできなくて」と言ったときには、「大して手が動かなかった」というよりも、「あなたの気持ちをうまく汲み上げたものができなくて」というような、つまりホスピタリティに近い使い方でしょう。「大盤振舞」とか、「きょうは振る舞ったよ」とかね。
 そう考えていくと、本来はパフォーマンスという言葉である「ふるまい」を、相手を歓待する意識を自覚した「ふるまい」という言葉に変容させていった、そういうメンタリティが、日本のホスピタリティの中にはあるのかな。



神をお迎えし、異人を接待する
儀式としての歓待作法。


松岡■日本の常民の文化には、ホスピタリティに当たるピタッとした言葉がないと言ってもいいかもしれない。京都のぶぶ漬けのように、地方地方で独特のふるまい方のイディオムを作っている。で、それが現代の我々からすると、あまりにも紋切り型で普遍性にかけると見えてくる。

井上■近世とか、中世とか、まれびとが来たときに常民はどんなふうにしてたんでしょうね。

松岡■季節儀礼にしちゃったんでしょうね。常民の中のハレの部分として取り出して、神人共食をするという様式の中にきちっとマネージしたんじゃないかな。

井上■儀式でクリアしたんでしょうね。

松岡■常民の日常的な振る舞いにはなかなかおりてこなくて、裃をつけるとか、三方を出すとか、門松立てるとか、恵方棚を飾るとかっていう、神をお迎えする作法と同じような儀式的なふるまいのほうへ、どんどん行ったんじゃないかなあ。

井上■日本では、おもてなしというのは、日常的な気持ちの延長では育ちにくいですよね。
 いまでも海外から賓客が来ると、どうも儀式ばって。やっぱり客人=まれびとという図式が、どっかに残ってるんでしょうね。

松岡■まれびとと思いすぎる癖がまだある。

井上■まれびとと思いすぎますね。それはたぶん長年の鎖国のせいもあるんでしょうけど。

松岡■それが、都市計画や都市のホスピタリティというところにも及んでますよね。まれびと用の豪華な迎賓館や特別玄関とか、あるいはお土産屋さんとかはつくるけれども、そこに親しむに従って感じるホスピタリティの仕組みのようなものを、都市がちゃんと用意できているかというと、下手だということになるのかもしれませんね。

井上■僕は、生まれ育ったのが京都の嵐山なんですよ。
 もう小さいころから、日常的に観光客が山ほどやってくる。小学校の先生が、毎週、朝礼で、「道を聞かれたら親切に」とかホスピタリティの大事さをよく唱えてました。
 ところが、観光客ってろくなことしないんですよ。庭の木を引っこ抜いていきよるとか、食べ物のカスを家の前に平気で捨てていくとか。やっぱり不満がたまるわけです、「何であんなやつらのために親切にしないかんのだ」と。それで、「観光客に道を聞かれたら、嘘を教えるようにしないか」と。

松岡■あなた言い出したんじゃないの?

井上■私、言い出したかもしれません、ひょっとしたら。(笑)
 ホスピタリティを発揮すればなるほど、迷惑をかける連中が来るわけですから、むしろ無愛想にしていたほうがいいんではないか。
 例えばパリの街だって、別に無愛想にしてたって人は山ほど来ますからね。むしろ住民は無愛想なぐらいのほうが……。これは存外、ひょっとしたら人気者自慢みたいなことになってるのかもしれませんが。(笑)

松岡■京都は明らかに、観光というのを意識したのは失敗です。もし京都が低落しているとすれば、そのことを決めたときからですよ。
 観光を意識したり、ホスピタリティを意識して、都市をつくるというには、日本はもう一つ仕掛けが変わらない限り難しいんじゃないかと思うけどね。

井上■じゃあ、お招き、ホスピタリティを都市が意識すること自体がおかしいと。

松岡■というか、瀬戸物の町へ行くと、まず大きなやきもののたぬきがいるとか、勾玉の橋を渡ると、ああ、出雲だと思わせるとか、そういうシンボルの記号的解釈か、もしくはゲストハウスがきちっとしているか、そのどっちかのやり方ぐらいしかないでしょう。いまひとつおもしろくないなという感じですね。



建築様式そのものの中に
ホスピタリティの表現様式はない。


井上■ゲストハウスのルーツというのは、一つは、長崎の出島、あるいは鹿鳴館風の伝統で、とにかくゲストを一個所、立派なところに閉じこめておくという、まさにまれびと歓待の作法ですね。――出島が立派やったかどうかはわからないですが。

松岡■井上さんの専門で言うと、建築様式の中で、こういう部分はホスピタリティ用だというようなことはあるのかしら? 例えば、ファサードがお招き用になってるだとか、ここからは内輪で、ここからは外向きだ、とかね。

井上■建築様式というのは、時代によってはっきりしてますから、プロの人が見れば、これは何年ごろの建物だというのはわかるんですよ。ところが、その様式にひっかからない、様式からズレる部分はだいたいそうですね。

松岡■えっ、様式に当てはまらない部分は、ホスピタリティ?

井上■ホスピタリティと言い切ると何ですが……。

松岡■に近い?

井上■建築家にしてみたら、何らかのサービス精神でやっているものだと思いますね。

松岡■へー、おもしろいね。

井上■逆に言えば、「サービス精神だけ」みたいなのもありますけどね。

松岡■それはぶっちゃけて言えば、ラブホテルのデコレーションみたいなものかな。欧米からの客人を連れて、ああいうところを通過するときに、いつも「何でここはギリシャ的な柱になってるのか」とか、「どうしてルネッサンス風のヘンなデコレーションがロココの上についてるんだ」とか、連中は笑い出すけど、ああいうものね。(笑)
 そうすると、もともと、民族や国を問わず、歴史の中で、ここがホスピタリティの様式的な突出だとか、空間だとか、パーツであるとか、モジュールだというのは、建築様式としてはっきりしてないわけ?

井上■すごいネガティブな定義ですけど、その時代の建築様式一般からズレる部分ということになります。

松岡■僕、京都の町家に住んでたけれども、町家なんかは外側にはホスピタリティは全くないと思うのね。

井上■鬼遣とか。追い出すほうですね。

松岡■暗いし、中は見えないし、看板も小さいし、何をやってるかわからないしね。

井上■あの格子なんかは、ほんとに拒絶してる。

松岡■中のちっちゃい庭も、自分たちのためであって、客向きと言えばせいぜい座敷でしょう。

井上■でも、町家風のお店でも、前に信楽のたぬきとか置いたりするじゃないですか。(笑)

松岡■ハハハハ。福助置いてるとかね。
 あと、明治の30、40年頃から出始めて、大正年間に見直されていったような、日本の家屋、住宅のプロトタイプになった文化住宅。ああいうものも、入って右に応接間があって、左側に次の間があってというのはあるけれども、じゃあ、外側がホスピタリティを持っているかというと、そういうものはない。

井上■そうですねえ。

松岡■ヨーロッパはどうですか? バルコニーとか、ヤードとか、コートとか、ああいうものも含めて、住宅建築そのものがホスピタリティを持っているものはありますか?

井上■いや、一般に住居施設にはあまりないと思います。

松岡■どんな国も?

井上■だって、変だと思いませんか。住居なのに、「どうぞ皆さん」とかいうような建物って……。

松岡■茶店じゃないんだからね。(笑)

井上■ええ。よっぽど客好きな人がそういうことを考えるのかもしれませんが、基本的にはないと思います。

松岡■そうすると、住んでる者と客と、お互いに共用するという意識で、暮らし方とか使い方を工夫するなかで、だんだん発見していく以外はないんだね。



「しゃちほこ」「もみじ饅頭」「八ツ橋」
の紋切り型方程式


井上■建築類型としてみれば、王宮とか、教会とか、あるいは、博物館とか大学とかも、公共建築は本来、威張った建築だったんですよ。
 日本でも、寺や貴族の邸宅、城、武家屋敷が威張った様式、あとはおとなしい様式の一般住居。大きくいえば、建築にはこの二つの類型しかないんですよ。
 その中で、威張った様式が威張り方をトーンダウンさせて、お招きする様式みたいなものができたんでしょうね。お招きする様式というのは、何ほどか、威張った様式の残骸がパッチワークみたいになってくっついてるんですが、それがたぶん、水商売系の建築物へ典型的に出てくるんだと思います。ヨーロッパでも、リゾート地の建物なんかそうですよ。

松岡■ああ、そうか、そうか。そういう威張りを抑えた公共建築で、一応ホスピタリティというものをあらわす。あとは、駅とか、橋とか、都市へのゲートウエーに、ウェルカム・シンボルとか、ウェルカム・センターをつくるというような、常套的なことになっていくわけですね。
 上野の駅で巨大なパンダがガラスの中に入ってたり、温泉地で、「ようこそ○○温泉郷へ」という看板が、何キロか近づくごとにだんだん大きくなって、最後はアーチになる。ああいうお膳立てしかないでしょう? 到底、「ああ、やられた!」というようなことは少ないなあ。

井上■「やられた!」と思ったのは、ホスピタリティの意識かどうかわからないんですけど、名古屋のしゃちほこですね。
 あそこへ行くと、しゃちが散乱してて、自衛隊の駐屯地に行ったら、戦車の両脇にしゃちのマークが入ってるし、市役所の職員はしゃちのバッジつけてる。名古屋大学の応援団旗はしゃちのマークになってますし、伊勢湾の遊覧船も巨大なしゃちになってるじゃないですか。(笑)

松岡■スタンプがシャチハタか何か。

井上■シャチハタは名古屋ですからね。
 この間、名古屋のコンベンション・センターというところで、コンベンション・センターのデザインをコンペで決めたんですよ。全国からいろんなデザイナーが応募してきはって、結局、一等になったのはしゃちのマークなんですよ。(笑)

松岡■それはやっぱり、クリシェ(型通りの表現・決まり文句)みたいなものの思い込み過ぎですよ。広島へ行ったら、もみじ饅頭を出さなきゃいけない、京都へ行ったら、八ツ橋を買うてもらわなあかんと。
 行く者も受ける者もお互いに、記号的なクリシェを交換しさえすれば済むという、そういう紋切り型の方程式ができてるんでしょうね。

井上■そうだと思いますね。オーストラリアへ行ったらとりあえずコアラを抱いてもらうと。

松岡■行った者も、「コアラ抱いたか?」って聞く。抱いたと言えば、ああ、行ったんだなと思う。

井上■観光というのはそういうものですよね。

松岡■そういうものなのかなぁ、もともと。追認行為なんだろうか。

井上■クリシェを越えた何かというのは、みやげ話として、そんなに伝わらないんじゃないでしょうか。

松岡■まあ、そうでしょうね。ルポルタージュ作家とか、旅行作家とかが、クリシェを全部捨てて、街角をかき分けて発見していくというのが、彼らのわざでしょうけれども、普通の人は普通の観光のほうが好きですからね。

井上■だから、丹精こめた旅行記よりも、『地球の歩き方』なんかのほうが読まれたりするんじゃないでしょうか。

松岡■なるほど。
 どういうふうに都市を描くとその都市らしさが出るか、というのはなかなか難しいよね。森繁の「社長太平記」や「寅さん」なんかも、どっかの町へ行ったりすると、そこを典型的に描いたりするわけだけど。
 サンフランシスコっていうと、坂と金門橋を映せば済むけど、その辺の町を映したりするとサンフランシスコに見えない。どうやって、その中になおサンフランシスコさを発見する描写があるかという問題は、意外と難しいですね。

井上■大阪は、よく道頓堀のかにとか、ふぐとか、あればっかりメディアの映像では出ますけど。

松岡■心斎橋のネオンとか。

井上■あれは実際には、心斎橋の一郭だけですからね。大阪の中でもかなり例外的なエリアを、「これが大阪です」という映像で映すわけですから。


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