産業のこうした傾向には、情報化・国際化という性格も拍車をかけた。さらに八〇年代に入るとマイクロ・エレクトロニクス技術が急速に進歩をとげ、コンピュータ・ネットワークによるデータ通信が利用可能な状態となるにつれ、都心には意思決定や研究開発を行う本社機能だけを残せばよいことになる。しかも八五年頃からの急激な円高によって、生産拠点は東南アジアを中心とする海外にまで移転していくことになった。
それまでの過程は、日本経済が大量生産と大量消費とを実現していくものであった。これはアメリカではフォード式の生産様式によってすでに実行されていた。つまり、生産工程を科学的に管理することで大量生産を可能にし、逓減する費用に応じて価格も引き下げ、しかし労働者に支払われる賃金は引き上げることによって、中産階級の購買力をかさ上げしたのである。
この生産方式がアメリカで有効であったのには、その社会構造が関係している。アメリカは移民の国であり、全ての国民に共通するのは言語と自由民主主義の理念くらいのものである。佐伯啓思の『「アメリカニズム」の終焉』が指摘するように、コーラやジーンズ、映画といった大量に生産・消費された商品は、国民の統合に役立った(「モノのデモクラシー」)。現在でも移民の流入の続くアメリカでは、言語すら米語を解さないヒスパニック系・中国系が急速に人口を増やしており、文化的な多様化が進むなか、むしろその文化は統合の危機にあるといえる。それゆえもの言わず、文化的故郷の色合いの薄い少数種類の商品による統合には、今日でもそれなりの意味があるといえる。
これに対して日本では、テレビの全国放送の影響もあって、国民の全員が同一の時点で同一の体験をもつということが、高度成長期に現実化した。コンビニエンス・ストアが全国に進出し、地方都市の景観は均質化され、地域による文化的な差異は消し去られていった。大都市においても方言など出身地による文化的差異は隠される傾向にあり、しかも所得についても相当程度まで平等化が進展して、商品によらずともデモクラシーの実現は容易になった。
このことは、少数種の商品の大量生産・大量消費を限界に追い込むことになった。とりわけ八〇年代に入って、日本の消費者は同一の商品に対して企業が価格を低下させることよりも、商品の種類を表面的にであれ差異化していくことを望む傾向を持った。いわゆる商品の記号化が生じたのである。これは企業にとっては多品種少量生産を強いるものであったが、いわゆる日本的経営のもとでブルーカラーが生産の現場で自由裁量的に作業することによって実現されることになった。
消費が差異化されたということは、商品に関する知識がそれだけ細分化されたということでもあり、万人に共有される商品知識がなくなったということでもある。その分、知識を共有する他者と出会うことは困難にもなる。それは一部はパソコン・ネットワークの普及によって解消されることになっただろうが、たとえばファッション好きな人々は都市の盛り場でみずから着飾ってファッションを見せびらかしたり、他人のファッションについて論評したりするようになった。つまり都市を劇場に見立てて自己を俳優のように舞台に置くような傾向が見られるようになったのである。同様に、共通の特殊な知識をもつ人々が都市に集まって記号にかんする何らかの消費活動を行うようになった。それによって、消費活動は一部都心に環流することになったのである。