特集■共生の時代
日本の都市と企業社会(1)
松原隆一郎■社会経済学者
経済の変遷に伴って、都市は変貌する。
バブル経済が終焉したいま、企業活動と都市の公共性は
どのような「共生」の関係を創りだすのであろうか。
戦後日本の都市は、経済面の発展、とりわけ企業社会の変遷を基軸として発展してきた。
産業化をもって都市化とみなす都市理解の学説に対してはかつてから多くの批判があるが、それにもかかわらず日本においては都市が経済の動向によって変化の趨勢を決められてきている。経済原理を中心に社会を編成してゆくという戦後の日本社会の特性が集約されたのが、都市であった。ここでいう「経済の動向」としては、さしあたり工業化、脱工業化、情報化、消費の記号化、会社主義化、国際化そして最近の最近の終身雇用の流動化などがある。こうした経済面における変化を受けて、都市は逐次、変貌をとげてきたのである。
しかし、経済は都市を動かす要因だとして最大のものだとしても、都市は経済に一方的に従属してきたわけではない。たとえば企業は、公害問題がクローズアップされた一九六〇年代末に、すでに「企業の社会的責任」を問われている。企業の活動が都市市民社会に対して害を及ぼすとすれば、企業はそれに応じて、何らかの責任を負わねばならないとされ、こうした議論は、理論的にどんな意味をもつのかはいまひとつ不明とされながらも、広く受け入れられるところとなった。また今日でも、企業は社会と共存共栄、ないし共生(symbiosis)を図るために、メセナやより一般的なフィランスロピーを求められている。
そこでまず、戦後日本の経済的発展に沿った都市の展開について概観し、次いで「企業の社会的責任」論の変遷をたどり、そのうえで企業と社会が共生するための条件を検討しよう。
都市化の六〇年代から
都市圏再編の七〇年代へ
我が国において都市人口が農村人口を越えたのは、一九五五年以降のことである。とりわけ六〇年代の高度成長期には大移動と形容されるほど農村から都市に人口が移り続け、七〇年の都市人口はじつに七二%に達している。とくにその多くは、三大都市圏(東京・大阪・名古屋五十キロ圏)に集中する傾向を示した。
このような人口集中をもたらしたのは、都市における鉄鋼・石油化学・自動車・電機などの重化学興業の急速な発展であった。就業人口についても六十年に第一次産業(農林・水産業など)の三〇・二%に対して第二次産業が二八・〇%というほぼ対等の数値を上げており、両者の地位は直後に逆転している。つまり、産業構造が第一次産業から第二次産業に推移するにつれ、人口が農村から都市に移動するという現象が生じたのである。
この時期には、都市の中央域に定住人口が集まっており、それゆえ都市において生産、消費、生活という社会活動の全体が営まれることになった(ここでは、経済に比重を置くという観点から、人々の社会活動を経済に関する「生産」と「消費」、そして政治や文化・教育などその他の領域を一括する「生活」とに区分しておく)。それらは都市において営まれたために、変化を余儀なくされた。一般に都市化といわれるのはそのことである。
ところが六〇年代も半ばを過ぎ、人口や工場が都市にあふれるようになると、さまざまな社会問題が生起することとなった。人口の集中は、住環境の劣化や地価の高騰をもたらした。そこで折からのモータライゼーションや鉄道など大量輸送機関が整備されたことによって、工業の生産拠点の分散が政策的に誘導され、都市近郊に工場団地が形成された。ハイウェイが日本中にはりめぐらされるようになったのも、この時期からである。しかし地方都市への工場の集積は、七〇年前後に未曾有の公害をも引き起こすことになった。
また労働者が生活の場を郊外に求めてもいった。都心には生産以外の本社機能が残され、生活や消費の舞台は郊外に、また工場は周辺地域に移る形で都市圏の再編がなされることとなったのである。七〇年代いっぱいまでかけて定住人口の都心での減少と、郊外の拡大を伴うドーナツ化現象が定着していった。都心勤めで持ち家を郊外に求めた労働者が、長時間かけて通勤するようになったのである。
こうした都市圏の再編は、産業の中心が重化学工業でなくなっていった過程にも対応している。七三年秋の第一次石油ショックにおける非鉄金属・鉄鋼などの素材関連産業が構造的な不況に陥り、これらに代わって第三次産業に属する商業・サービス業が雇用を伸ばした。ダニエル・ベルのいう脱工業化が日本にも到来したのである。
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