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■アジアの都市とアジア人

リービ英雄■作家・文学者/法政大学教授

「国際化」という言葉が流行るほどには、国際化されていない日本。
だが、中国が変わり、アジアが変わり、アメリカが変わるいま、明治以降の「国際化」の意味が確実に変わりつつある。


野茂英雄という比喩

 ぼくは、万葉集の研究をしていて、なかでも山上憶良には、自分の置かれている立場も重ね合わせて関心を持っている。それは、ぼくが西洋人でありながら、日本語のステージに立った人間として生きているからだと思う。そのことは相当に難しいことで、だから長い間なかなか評価されてこなかった。せっかく西洋人に生まれたのに何でそんな変なことをするのかと、多くの日本人からは言われもした。

 しかしぼくは、中国でもなく、韓国でもなく日本と日本語を選んだ。そのぼくからみると、日本民族という近代がつくった枠の外で生まれた人たちが、自由に日本に参加できることが「国際化」の定義だということになる。
 だから、山上憶良が大陸の技術をもって日本に渡り、明治の西洋人のように、日本人に教えてはまた国へ帰ってしまうのではなく、日本に住みついて彼自身が日本の和歌をつくったことに思いを馳せる。百済生まれの大陸的な感性をもった彼が、長歌の中で柿本人麻呂とは違ったやりかたで天皇をたたえる歌をつくる。それが当時の日本の宮廷に認められ、万葉集の中で優遇されている。つまり、山上憶良は日本語をもって日本に参加したぼくの先達でもあり、彼の生きた時代には日本は「国際化」されていた。

 ところが、近年の日本で語られる「国際化」は、憶良の時代のそれとは違う。貿易国家日本が、外国に対してより開放的になる度合いのなかで必然的に経験する性質のものである。これをスポーツの比喩で言うと、いままではクロマティとか、曙が日本の「国際化」を語る比喩だったといえる。
 そこに突然、「野茂英雄」という巨大な、しかもまったく異質な比喩が登場してきた。近代の最後にそれは来た。
 この比喩の意味は何なのかということに、ぼくは注目してみたい。

 「国際化」という言葉が、あまり国際的ではなかった。これまでは、明治以降の日本が西洋から受けた影響をそのまま受けとめるか、それとも拒否するのか、この島国の中の議論ばかりでやられてきた。優越感と劣等感の窮屈な循環、そこには、日本人の世界に対する、実はあまり複雑ではない複合感情(コンプレックス)が横たわっていたといえる。
 そこに「野茂英雄」はアメリカ大リーグのスターとして、ニューヨークタイムスの社説ですら取り上げられる存在として、日本人の前に登場してきた。当然、人びとは「野茂英雄」が、アメリカに渡る前の日本における彼の置かれていた立場を知っている。さらに面白いことに、彼の投げ方は、日本独特のスタイルだった。彼は、日本の中で力を発揮することを許されず、アメリカで日本独自の力を発揮できた、という「逆説」が感動を与えたのだ。

 つまり、「野茂英雄」は日本のブランドではなかったが、世界的なブランドだったということが発見されたのだ。
 例えば文学の領域で、ドストエフスキーはロシアの作家ではあるが、別にロシアのブランドではない。日本人は、明治時代から島田雅彦までずっとドストエフスキーを読んできているが、それはロシアを知るために読むわけではなく、ドストエフスキーが世界的なブランド性を持っているからこそ読むのだ。
 したがって、「野茂英雄」がでてきたことで、日本人は島国の固定観念から自由になり、すこし外国人や世界に対して寛大になるのではないだろうか。
 そしてこの日本人の経験は、これから全世界が別な形で経験する「国際化」を象徴しているのではないかということが、少しずつではあるが見えてきているような気がする。



ニューヨークに「新宿」をみつけた

 最近ぼくは、ニューヨークのブルックリンを語るとき「新宿」という比喩を使ってみた。
 ブルックリンは昔から移民の街だったが、最近新しい移民が増え、ブルックリンに新しい移民街ができている。ロシアのユダヤ人、レバノンあたりからのアラブ人、それとカリブ海の黒人。同じ黒人といっても奴隷の末裔ではなくて、カリブ海から移民している全然違った文化を持っている人たち。彼らがつくっている街を歩いていて、ぼくはアメリカの他の街にない雰囲気に驚いた。
 特にユダヤ人の街でそれを感じた。ユダヤ人たちが、狭い舗道の上を、ぶつかっても喧嘩にもならずに、群れて流れている。共同体という言葉はあまり使いたくないが、まるで一つの生き物みたいに何百人もが、かたまりとなって歩いている。これは、同じニューヨークでも、五番街のアメリカ人たちの群れと、まったく雰囲気が違う光景だった。

 僕が十代の終わりに初めて新宿を歩いたとき、東口を出て歌舞伎町におりる、下り坂になっている横丁は、人がトーンと流れていた。自分の意思とはかかわりなく流されてしまう。その群れのなかには、やくざもいるし、麻薬売りもいるはずだけれど、不思議にこわいという感じがしなかった。むしろ、一種のやさしさすら感じたのだった。そういう感情がふっと生まれてきて、ぼくは、ブルックリンに対して「新宿的な」という言葉を使いたくなったのだ。

 ユダヤ人は、ヨーロッパの内部と外部との境界線上の存在だ。同じような存在に、いま問題になっているボスニアのモスレムたちがいる。彼らの存在は、日本人の単一民族思想の中では最も理解しがたい、一番の盲目点になっていると思う。外見は白人だが、キリスト教ではなくて、ユダヤ教やイスラム教徒。つまり、ヨーロッパの中の非ヨーロッパ的なものを伝統として持っているマイノリティだ。このマイノリティが近代ヨーロッパで一番迫害され、差別されてきた。
 そのマイノリティが、いまアメリカで新しい生活を始めつつあることが見える。アメリカには100年前からユダヤ人の移民がいる。近年はアラブ人もいる。アジア人も、いま700万人くらいが生活している。しかし、以前の移民たちは、懸命にアメリカに同化するように努力してきた。マジョリティのWASP的なイメージに自分をつくり直すという義務があった。それがだんだん希薄になってきたことが実感できた。つまり、アメリカが国際化されつつあるのだ。

 将来、アメリカはどうなるかと考えたとき、最近の移民たちが、マジョリティにならなければという義務感を持たなくなったことは、大きな指標だと思う。同じアメリカの中でも、ヨーロッパとは違った形で非西洋的な街があちこちにできる。それがアジア人だけではなくあらゆる民族のレベルで起こっているということだ。
 そしてそのような民族が、21世紀のあり方として、ヨーロッパ人なのかアジア人なのかはっきりしない、つまり混血的なものとして現れてくることは「国際化」を語るもう一つの比喩として十分に考えられる。

 そう考えると、もしかしたら最近のアジアの諸都市以上に、ニューヨークの一部が「新宿的だ」と言えるのではないか。ニューヨークの在りようが、ポストアジア主義の言説を可能にするのではないか。これはほんの仮説であり、冒険的な発言をして反感を持つ人はいるだろうが、あえて言ってみたくなる。それは、一度脱線してしまって「新宿」に入り込み、その経験を元に日本語で小説を書いた人間が、「新宿」の経験を踏まえた上で、25年たってもう一度ニューヨークを見たときの、一人の作家が世界を感知したプロセスだと思う。



儒教的ぬくもりの中のソウル

 そのような視点をもって、アジアのことを考えてみる。
 日本では、15年ほど前からアジアが主張されてきた。ただそれは、あくまでも戦後のアメリカの多大な影響に対する一つのアンチテーゼとして、島国の中のアメリカに対する関係の訂正のためにその概念がつくられたにすぎない面がある。この50年間の、日本とアメリカ、日米しかないという時代はあきらかに終った。もちろんわれわれの生きている間、日米は依然、非常に大きな課題としてずっと続くと思われる。しかし日米と並んで、この5、6年、日中が、はっきりとした形を見せてきている。この中国の出現によって、アジアという言葉は変わらざるをえないと思われる。

 例えば、ぼくが10年前に経験したソウル、釜山、全羅南道と、この1、2年のあいだに経験した北京、上海、審陽とは、まったく違う経験である。
 ソウルへ行ったときに、中上健次も含め当時の多くの日本の文化人はそうだったと思うが、かつて日本が持っていたアジアのエネルギーの、もっと純粋な形で残っているものを見て喜んだと思う。たぶんぼくもそうだった。
 ぼくは、25年前に「新宿」を発見した。ところが、あの当時ぼくを魅了したものが年々、日本の中で薄れてきて、すごく欲求不満を感じていた。それがソウルの鍾路へ行くと、「ああ、まだあれがもっと純粋な形であるんだ」と。
 たとえば、明洞で入った名曲喫茶だ。白磁と青磁を並べて、壁にはハングルの書を並べ、そこでモーツァルトをかけていて、そこで、非武装地帯帰りの軍人が、軍服で彼女を連れて2人でモーツァルトを聴いている。それを見たとき、秩序ある社会の落ち着きがつくりだすやさしさを感じた。ソウルの街も当時は、非常にフォーマルにつくられていて、公園にしても建物にしても、官能的ではない。儒教的な秩序を感じさせる。それは人の言葉遣いにも、上下関係にもあらわれ非常に古典的、かつシビアなものでもあった。

 そのソウルも、オリンピックが終わって4年ほど前に行ったら、中心街はひどく日本化されていた。オリンピック後はバブル現象があって、貧富の差が著しくあらわれ、随分乱れたという話も聞く。しかし、ぼくが訪れた10年前は、第一印象としては古典的な「アジアの都市」が残っている街だった。
 しかも、リー・クアンユーのシンガポールのあの人工的な儒教主義ではなくて、ソウルでは、実生活に合った儒教的なぬくもりを感じた。それがたまたま残っていたものだが、イデオロギーになったアジアと違う「本物のアジア」そして「新宿」と、ぼくはその当時のソウルを形容した。

 かつて、ぼくは司馬遼太郎さんとの対談で、「新宿は日本で最も日本的なところで、最も自由なところだという不思議な逆説があると思う。しかし、それには大阪人はすごく反発があるんじゃないか」と言った。そのとき、彼は「違う、それでいい。大阪の南と新宿はどこが違うかというと、新宿のほうが知性がある」と示唆してくれた。その「知性」が、ソウルを「新宿」と重ねさせ、また、ニューヨークに重なることの中にあるのかもしれない。



150年の重しが取れた中国


 ところが、最近、初めて北京へ行ってみると、ソウルともニューヨークとも全然違う体験をすることになる。
 ぼくが行った時期の問題もあると思うが、ちょうど中国が脱共産主義の一番強烈なときの北京へ行って、天安門近くの、ホテルの並んでいる大通りを見たとき、ラスベガスに似てると思ってすごくショックをうけた。ぼくの頭には、毛沢東的な中国がまだ残っていて、とくに、台湾で子供時代を過ごしたわけだから、30年ぐらい変わらないイメージを持って行ったので、その第一印象は強烈だった。

 むろん、そんな第一印象はどうでもいい。中国は、阿片戦争以来150年間、アジア2千年の歴史を規定していた「中心と周辺」の構図が解体し、中心だった中国が沈没した混乱を経験した。中国人以外はそのことをとうの昔に忘れているが、中国人はそれを忘れておらず、150年ぶりに再び中心になろうとしている、そのエネルギーがすさまじい。
 ぼく自身、どこかで中心に対するあこがれ、王国に対するあこがれを感じている人間だから、北京は、「皇帝が中心にある宇宙」が創り出す幻想、ファンタジーとして、一つの生き方を想像させてくれるすさまじい街だった。そこの「中心性」、日本にしてもアメリカにしても野蛮国にすぎない、というあのショック。それは韓国にはなかった種類のものだった。

 もう一つは言葉の問題だ。中華思想という言葉はいまでもあるが、北京へ行って感じたのが、中心から遠い人に対しての軽蔑、差別している非常に冷たい態度である。キャピタルだから、よそ者に対して冷たい。パリもそうだし、京都もそうだし、そして北京がまさにそうだ。
 ところが、ぼくが北京語をしゃべれるとわかると、クルッと態度が変わり、「北京語をしゃべれる者は人間だ」ということになる。だから民族差別とは違う。それがぼくには非常にうれしかった。最近までの日本では、日本語をしゃべる努力をしても、同化は不可能だということになっていた。「ヘンな外人」ということでしかなかった。それが北京では北京語を話せれば、仲間として認められる。こちらが努力をして北京語を話せるようになれば、ちゃんとした扱いをされる。とても不思議な感じがした。あれは、自分の母国語が普遍的なものだという考え方で、裏返せば、すごく傲慢なことなんだろうとは思うが。

 北京から上海に着いた夜は、別のショックを受けた。ちょうど2年前のことだ。北京から特急列車で20時間かけて上海につき、バンドのまん前のピースホテル(和平飯店)に泊まった。北京の人は「上海に行くな」と上海の悪口を言っていたし、30年ぶりに僕の北京語がよみがえってきたその感動が強烈で、「中心の言葉を僕も共有してるぞ」という幻想まで抱いた。

 ところが、着いた夜、上海の南京東路を歩いていて、言葉が通用しない。ぼくは、自分の中の北京語、子供時代の言葉が戻ってきてしゃべりたくてしようがないのだが、だれも北京語をしゃべりたがらない。みんなぼくをみると、英語か日本語で話しかけてくる。
 バンドは30年前の横浜の山下公園に似ているところがあった。二人組、三人組で来るが最初泥棒かと思った。それが、外人をつかまえては英会話の練習をする英会話族だった。「どこから来た?」というから、日本から来たと言うと、日本語に切り換える。日本語でしゃべりたくてしようがない。そして口々に「北京なんて田舎だ、おくれてる」という。また、「日本がなんだ、アメリカがなんだ、香港がなんだ、上海こそアジアの中心だ」という意識をにおわせる。
 それは愉快な経験ではない。だが、非常に劇的な経験ではある。

 ぼくが、もし毛沢東時代、あるいは古典的な共産主義時代の中国へ行ったら、ただなつかしいということで済んだと思う。当時は、中国の本当のエネルギーは沈んでいた。
 現在、毛沢東ロマンチシズムをもって中国へ行こうとする外人にとっては、「なんていやらしい、カネもうけ」と物すごくショックを受けることだろう。しかし、もともとそういうエネルギーが中国にはあったということだ。現在の中国は、50年間はイギリスの帝国主義、50年間は日本の侵略、50年間は共産主義という三つの支配からやっと抜け出た。

 バンドに立つと、戦前は外国の軍艦が並んでいた川の向こうは特別経済地区で、毎月一本づつ高層ビルが建つ、世界で一番活気づいた都市である。
 したがって、中国をノスタルジーとして感じることは間違いだ。日本の文化が空洞化されたことの反動と、あまり交通がなかったから、アジアをイメージ操作の中で見ることができたが、事実のアジアはノスタルジーとは無縁のものになりつつある。
 かつて、アメリカ人も一種のオリエンタリズムのなつかしさで日本を見てたと思う。それがいつ変わったかといえば、日本人の賃金が自分たちの賃金と同じになった頃からだ。
 いま韓国、台湾は、日本が100だったら、80ぐらいまで来ているらしい。中国でも、数百万人の都市部の人たちが日本のサラリーマンと同じ年収をとっている。

 そのような中でアジアを語ると言うことは、阿片戦争から150年間の中でアジアを語ることではなくて、阿片戦争以前の世界のことを考えなければいけないということなのだ。つまり、西欧帝国主義以前のアジアは何だったかということを。
 そのときの、相互の違いを再確認することが、韓国、中国、あるいは東南アジアが経済大国になり「国際化」されるにあたっての通るべき道であるように思う。


りーび・ひでお●作家、日本文学研究者、法政大学教授
1950年米国生まれ。外交官の父と共に台湾、香港などを移り住み、16歳から日本に住む。早大、東大、成城大で「万葉集」を学び、プリンストン大学助教授、スタンフォード大学日本文学準教授を経て、1994年より現職。英訳『万葉集』で1982年全米図書賞受賞。小説『星条旗の聞こえない部屋』で1992年野間文芸新人賞受賞。「日本語を母国語としない外国人」による初の本格的日本語小説として話題を呼ぶ。他に英語による『柿本人磨』、エッセイ集『日本語の勝利』。現在、東京を拠点にアジアや欧米を行き来し、雑誌や新聞、文芸時評やエッセイなどでも活躍。

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