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■巻頭対談■
都市、明日の姿(2)



都市・人間・精神を繋ぐもうひとつの都市論

磯崎■人間臭さとか、人間の近づきやすさというふうなものは、工学的なレベルでの計画ではすくい切れないものがあるように思います。
 工学部の人間が、都市を論じたり、都市を記述したりすると、どうしても計量化とか物理的なレベルにとどまってしまって、人間臭さとか生活臭さのない、実感の希薄な表現しかできないんです。
 そういう工学サイドからの読み方に対して、歴史散歩であるとか、歴史に出てきた街のイメージであるとか、文学者たちの書く都市の本が20年ぐらい前からはやってきた。それはそれでおもしろいんだけれども、読み物に終わってしまって、都市論の域にまでならないような感じがしている。
 僕は、中井さんの都市について書かれた文章の、そのどっちでもない見方をされている点に非常に感心しました。

中井■僕の言わんとするところに、いちばん近いのは、カルロ・ギンズブルグが『神話・寓意・象徴』で書いた、あの方法論じゃないでしょうかね。都市の中でどう人間が動いているか、あるいは動いてきたかということを考え、その枝の上に、いろんな対象がある。ギンズブルグは、この方法論で歴史を書いたり、シャーロック・ホームズを論じたりしてますが、これに近いんじゃないでしょうか。

磯崎■風水には、だいぶ前から関心を持っておられたんですか。

中井■韓国人の家に3年ほど下宿していたせいもあるかな。僕の場合、風水のような定式化よりも、人間が肌で感じる土地の相のようなものに興味がある。
 たとえば僕は、都市の真ん中には住めない人間で、家はいつも街のふち、住宅地のなかでもいちばん端っこの家を選んじゃう。これはなぜだろうと。考えてみると、精神分析学者の多くは、平野と森(山)との境に出てるんです。ユングもフロイトもアードラーも。日本でいうと、土居健郎先生も山と平地の境目ですし、河合隼雄先生も篠山です。山の真ん中に生まれたりすると、精神分析よりも神秘思想家になっちゃったりして、ちょっと違うんです(笑)。なるほど、そういうことかと。
 僕は、そういう土地のゲニウス(地霊)みたいなものに興味があるんです。
 パリの文学者でも、パリ生まれで、パリ育ちの人というのは、あんまりいないのね。文学者にしても、アンドレ・ジイドというのはノルマンディーの英仏海峡の辺り。サルトルだって、シュバイツァーのいとこだっていうんだから、半分ドイツ人で、アルザス人の血が入ってるんですね。ロラン・バルトといったら、スペインの近くの人でしょう。ポール・ヴァレリーなんて、お母さんがイタリア人でお父さんがコルシカ人で、砂州でつながってる島みたいなところに生まれた人です。

磯崎■どこまでほんとか嘘かわからないですけど、お化けが出るとか、あそこに行くと必ず病気になるとか、呪われた家というのがありますよね。怪奇小説のなかだけの話じゃなくて、ヨーロッパにもどうもあるみたいですね。

中井■子供のころ僕は、阪神間の住宅地で育って、どれも同じような家なんだけど、住み主がひんぱんに変わる家と、子、孫の代にまで及んでずっと住み着いている家とあるわけです。運命とか偶然とか言えば、そうなのかもしれないけど、長く住むような気がしない家と、人間との相性が非常にいい家と、きっとあるんだろうなあと思うんですね。それは、お化けとか呪いとかいうほどじゃないけれど。

磯崎■住みにくい家とか部屋というのは、明らかにあるでしょうね。

中井■各地のホテルを泊まり歩いても、ホッとするのと、そうじゃないのとあるわけですけど、あれは、微妙な空気の肌ざわりとか、においとか、光とか、微妙な総合感覚で、何かひとつというものじゃないですね。

磯崎■やはり、中井さんの患者を診察する見方と、街を観察する見方と、どこかに共通するところがあるんでしょうね。

中井■たしかに、共通するものがあるかもしれませんね。
 僕は往診するとき、そこの家のペットや植物とか、家具のたたずまいなどを見ます。これはなかなか役に立ちますよ。上等な額が掛けてあるんだけど、ゆがんでいるとか、だれも入ってない部屋があって、空気が肌にやさしくないとか、そういうときは、どうしてだろうと考えますね。

磯崎■精神的にいろいろ問題が出てくる人というのは、住まいの雰囲気が反映していることがありますか。

中井■それは一概には言えませんね。病気というのは自然的な原因が大きいですから、病気が一時的なもので済んでしまうのか、そこの環境の中に根づいてしまうのか、そういう区別のほうが眼目でしょうね。それを言葉にあらわすのはなかなか難しくて、試みてはいますが、あまり一般化しすぎると、ひとり歩きしそうで、やや筆を抑えているところがありますね。

磯崎■ニューヨークタイムズで建築批評・都市批評を担当しているポール・ゴールドバーガーが、去年来日したときに、東京を一緒に歩いたんです。彼は、新宿がおもしろかったから、もう一度行きたいというのでつきあってやったら、「西側はもう結構」と。もっぱら歌舞伎町の側がおもしろい、東京の中でもその辺がいちばん関心があるという。そこから離れないという状態でしたね。

中井■盛り場っていうのは、都市計画には乗りえないものらしいんだけど、パチンコ屋にしてもゲームセンターにしても、これはもう人間、街に放っといたら、うじゃうじゃ寄っていくところなんだな。でもそういう溜まりっていうのは、じつはいちばん深いコミュニケーションを交換してるところじゃないかと思いますね。

磯崎■新宿にしても、六本木にしても、ぐじゃぐじゃ人が溜まっているところもあったり、人の流れもぶつかりあうものになってる。そこで営まれる人々の行動や生態が優先されて、都市があるんですね。

中井■人間、しゃべるだけではないんだなあ。人臭いところへ行きたい。ゴキブリだって集まってて、別にしゃべらなくても、においを交換したりしていて、あれでコミュニケーションになってるんだよなあ。
 以前、ある精神病院で、庭園をつくったけれども、さっぱり患者がそこへ行かない。それなら病院の中に患者さんを全部放して、どこに自然に集まるか見たらどうかと言ったんです。そしたら、患者さんが集まるところならわかってる、人通りのにぎやかなのが見えて、松林やちょっとした祠がある、そこへ集まるんだ。人が集まる所は知っていたのに、公園は全然離れた所につくっちゃったわけです。患者さんは、人間が好きなんです。人間を見たいんだけど、見られるのはいやだからそこに集まる――これは患者さんに限りませんが。なのに人目から遠くて静かだとか、景色がいいからとか理由をつけて、むりやり来さそうとしても、それは全然だめです。

磯崎■それは都市公園をつくるときの問題そのままですね。

中井■そうなんですか。何か知らんけど、人間を放ってみたらいいだろうと僕は思ったんです。ともかく泳がせてみないとわからない(笑)。
 東京都のリハビリテーションセンターで、いちばん使われているところはどこかというと、もっともらしい名前がついた大きな部屋じゃなくて、リハビリの経験者が集まるOB室に、いちばん人間が集まってくる。8畳くらいのところですかね。

磯崎■でかい空間ではなくて。

中井■そう。OBが来るということがそもそもお目こぼしなんだという理屈で、やむなく空いている部屋を使ったので、狭くて何にもないし、おカネもかかってない。そこで何が行われているかというと、情報交換なんですね。職の情報、友人の消息、異性の友達を探しに来るやつもいて、一種の広場なんです。そういう場所を先取りして、つくってみればいいじゃないかと言ってるんですがね。

磯崎■虫の動きとか、ロバ道とか、そういうもののほうが、生活に近いものが見えてくるかもしれないですね。ロバを山に放ると、ロバはいちばん傾斜の緩い歩きやすいところを探して歩く。ロバ道というのがいちばん楽な道でしょう。

中井■ウォーターフロントでも、フナ虫というのは平等に集まってなくて、フナ虫が好むスペースがある。小さな児童公園でも、子供が全然いない広いスペースと、子供が取り合いしているわずかなスペースとに分かれているような気がしますよ。

磯崎■こんなクネクネしたロバ道はだめだ、人間の理性による、もっと幾何学的にきちんとしたものが偉いんだとか、そういうあとから押しつけた概念で都市を割り付けるんじゃなくて、自発的に生成されていくような都市のパターンを、あらかじめ見つける方法があれば、これは、すごくおもしろい、革新的な方法になると思いますね。



生きられる建築と都市

磯崎■都市も建物も、人が住まなくなった瞬間に、本当に寒々しいものになりますね。だれも使わずに放置していると、2、3年で廃屋になって、崩れ落ちてしまうし、人のいなくなった都市はすぐに廃墟になってしまう。それが、中に人がいると違うんですね。中に住んでいる人間と呼吸がつながっていて、生き延びているんじゃないかと思うんです。

中井■建物というのは、人間と呼吸し合いながら生きていますよ。僕は、実感としてそう思ってる。書斎でも、1週間入らないと荒れてしまう、空気がザラザラして来るという感じがします。住宅公団でも、1週間に1回、空き家の風通しをやるために人を雇ってるそうですね。

磯崎■それは絶対必要なことですね。木造でも、その気になって手入れさえすれば、コンクリートや石の建物よりも長く残るんです。京都の桂離宮は、木造の技術からすれば、壊れやすい雑なものなんですが、手入れがいいし、修復もよくしますから、ぴしっと残っていく。
 これは我々が常に嘆いていることの一つですけど、建築の設計をやって、建物ができ上がったあとに、期待どおりの役割を果たしているかとか、使われて起こってくる欠陥はないかとか、あとあとまで面倒をみれる余地が、いまの手法のなかにはないんです。
 伝統とか風土とか自然のなかに、建築が馴染めばいい、住み込めばいいというんだったらまだしも、この建物をきっかけに街が全部変わってもらわなきゃ困るという、新しい大きなスケールを期待される建物になってくると、結果を見ないと、よかったか悪かったか判断できない。
 だから、修正を想定してくれればいいけど、してくれないと本当に困ってしまうわけです。

中井■絶えず軌道修正するようなところがあってもいいのにね。「これはしまった」というところは必ずあるわけで、ちょっと手直しすれば生きるんだから。

磯崎■例えば、新しい街ができた場合でも、別な要素が入り込んできて、最初の状態からどんどん変質していって、いま目に見えているもののある部分は崩れ、ある部分は残るかもしれないし、廃墟となるかもしれない。そういう変質というのは、どんなかたちにせよ、当然予想されて然るべきものです。
 都市も建築も、でき上がった瞬間の、あのよそ行きの顔を最後までずうっと保つことは、ほとんどないのではないかというふうに、僕はどこかで、あきらめてかかってるところがありますね。

中井■それは大事なことじゃないですか。僕の友人の彫刻家は、石を彫って、8年ぐらい庭に置いて、雨に打たせてから出すんですよ。本人の目にも耐え、雨にも耐えたやつを出すんですね。あれは大事なことかもしれない。
 そうすると、建物にも都市にも、管理費とか修繕費とかいう消極的なものではなくて、「生活費」のようなものを考えていく必要があるということがいえるんじゃないか。

磯崎■それはすごく重要。その「生活費」というのは、じつにいい言葉ですよ(笑)。

中井■建築も都市も、ただでは生きていけないんだという認識が広まるといい。

磯崎■建築というのは、いくら追求してもこれが完璧な正解だと思うような答えには行き着かない。
 もちろん、その場所の条件、建物にかかわる人たちの考え方、素材、技術…、さまざまな要素を組み合わせて、可能なかぎりベストな答えを見つけようと努力をするわけですが。

中井■ときどき僕も、病院の設計の意見を求められたりしますけど、病院と裁判所と警察というのは建物の中が非常にわかりにくくできているんですね。人民はその中でいろいろ迷って、やっと目的の部屋にたどり着く。そうすると、ホッとして、医者や役人なんかも偉く見えるだろうし、緊張したあとで気が緩んで油断する(笑)。そのためにできてるんじゃないかというのが、僕のジョークなんですけどね。
 病院をつくる場合には、やはりシンプルがいちばんです。入院したその日には、頭のなかに建物のレイアウトが入ってるようでないと、患者さんは落ち着きませんよ。
 30〜40年前ですけど、ある有名な建築家がつくった精神病院がありまして、患者さんというのはマンネリズムに陥ってはいけないから、絶えず驚きがあるようにつくろうというので、非常にわかりにくい病院になってしまって。職員も迷うし、ここは3階かと思ったらじつは2階だったとか(笑)。

磯崎■戦災で焼けちゃいましたが、東京に「二笑亭」という、変なので有名な家がありましたよね。

中井■深川かどこかですね。式場隆三郎が写真を撮ったり、図面を起こしたりして、本を出していますね。

磯崎■行き止まりの階段とか、不思議なものだらけで、あれはもう一種の病気というか。

中井■病気なんでしょうねえ。

磯崎■常識とか理性を超えた感覚が生み出したもののおもしろさ。いくら建築家が頑張っても、あるロジック以上のものへ踏み外せない限界を感じてしまいます。
 二笑亭までいければ、これはデザインを超えたデザインといいうるんじゃないかと、そういう非合理的なものを創りたいという願望は、僕のなかにもたしかにあります。日常的に自分がやっているデザインの合理性の、その裏が欲しいという思いと、変わったものに対しての単純な好奇心と、両方絡んでますけどね。


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