磯崎■昔、中井さんが『へるめす』に、「神戸は東南に開け、裏に山を背負って、両側を支脈に囲い込まれ、前に海がある。この地理感覚は風水ではないか。神戸の中国人は、この地形のせいでここに住み着いたのではないか」と書いておられましたね。まだ、建築や都市計画をやってる連中はだれも「風水」なんて考えてなかったころで、僕は非常におもしろく読ませていただきました。
中井■神戸大学には、中国や韓国、朝鮮の学生が多くて、帰化している方を入れたら、さらに多くなるでしょう。そのなかには、やはり「神戸の位置がいいから来た」という人もいます(笑)。
磯崎■こんどの本(『1995年1月、神戸』)では、「神戸がリニア(線状)な形をした都市だったことが、震災に幸いした」と書いていらっしゃいましたね。
中井■ええ。神戸という街は、横に長く広がる一次元都市なんですね。縦の交通は歩いて行き来できる、2キロも逃げれば山か海に行けますから、煙に囲まれてやられたという人はいないんです。
神戸の場合、西国街道と、それと直角に交わって有馬のほうに行く有馬道というのが昔からの幹線としてありまして、いまではローカルな道になっているけれども、この二つの古道が震災で崩れなかった。渋滞を避けるために、僕はこの二つの道の組み合わせを最大限に活用して、医師や看護婦たちのための地図を書いた。長い年月のなかで踏み固められたのか、そもそも地盤の安定したところだったのか、周りが崩れていても、とにかくこの二つの道は、全然被害がなかった。見事なものです。
こうした歴史的な景観が残るというのは、非常に感動的なものがあります。山ひとつ越えれば、六甲山の北側の道は全部生きていたし、神戸の人たちが覚えていた、海と山に囲まれた風水的な街の輪郭というのは、全然動かなかった。このことは、めちゃめちゃにやられた人たちにとっての強い心の支え、精神的な安定を与えたと思います。
磯崎■今度の震災では、たくさんの人が避難されて、避難所で共同で生活された。体育館やテントでの大変な暮らしのなかで、清潔感とか身の回りをきれいに整えることへの気遣いとかは、どうだったんでしょう。
中井■日本人は人前で不潔なのはいやですからね、避難所でも清潔は心がけていたと思います。ちゃんと自分の縄張りを決めて、きちんとふとんを畳んで、そういうところはお行儀いいですよ。
家にいる人にとって、いちばん問題だったのは、水洗便所を流すということでしょうね。使った水を捨てずにポリバケツにためて、最後は水洗便所に流す。どうしてもだめな場合は、排泄物をビニール袋に入れて積み重ねたり。
磯崎■そういう手当てをみんなしたわけですね。
中井■ええ。二番目の問題は風呂。風呂への要求というのは強いですね、わが国民は。少しずつ少しずつ水をためて、わが家でも風呂を沸かしましたよ。10階建てぐらいのマンションにも、みんな担ぎ上げたわけです。自衛隊の給水車から水をポリ桶に入れて、自動車で少しずつ運んでくる。ボランティアはそれにかなり役立ったんですよ。
磯崎■2カ月めに僕は、神戸の街を見て歩いたんですが、そのときに「新聞やテレビに出なかった最大の問題というのはにおいでした」と言われたんですけれども…。
中井■いまでも三宮あたりは、排泄物のにおいで満ち満ちてますが、避難所では、それほど問題にならなかったんじゃないでしょうか。
あるかなと思って、ほとんどなかったのは野糞なんです。これは驚くべきことです。まあ、どっかではしてるんでしょうけど。ただ、大阪だったらわからんような気がしますよ。いまでも野糞ありますから(笑)。
磯崎■ヨーロッパの都市だって、つい前世紀ぐらいまでは、糞尿は窓から外に放り捨ててたわけです。
中井■ヨーロッパは夏でも乾燥してますからね。意外とくさくないのかも分からん。着たきりでヨーロッパ旅行したあとに、成田に着くと、みるみるにおってくるからね(笑)。
磯崎■においっていうのは、人間どうも慣れちゃうんですね。
僕も昔、旧一高時代からの駒場寮で、それこそネズミとゴキブリといっしょに暮らすような、掃除なんか絶対にしない生活を一年半した。歯も磨いてるし、洗濯もちゃんとしてるつもりで、自分では全然くさいと思ってないんだけど、そのあと下宿させていただいた仏文の渡辺一夫先生のお宅で、「おまえ、猛烈にくさい」と。何カ月か経ってから、寮に荷物を取りに帰ったら、たしかに玄関から15メートルくらいの辺りからもうにおってるんですよ。
僕のほうも、「においがなくなるのに、半年はかかったよ」とあとから言われました(笑)。
中井■とにかく今度の場合、冬だったからよかったです。
磯崎■六甲アイランドとかポートアイランドは、幕張と同じ、人工の埋立造成地ですね。
中井■規模は小さいですけど。
以前は、神戸は埋め立てられないという先入観があったんです。海が深いので、西洋人が神戸を港として見つけた。それを、海が深いなら山一個まるごと移せばいいじゃないかという話になって、ダンプを使わずにベルトコンベアで直接山から土を運んで、まさに山をなくそうということから始まっている。
神戸に留学してきた中国人が、神戸を称えるときに、毛沢東の「愚公山を移す」のせりふを出して称えるんですよ(笑)。最近はもう、ある程度に抑えてますけど、依然として、廃物じゃなしに山の土で埋め立ててます。だから、神戸人は震災のときの液状化現象でも、「東京では何が吹き出してくるかわからんけど、神戸ではちゃんと六甲の土が吹き出してるぞ」と負け惜しむ(笑)。
磯崎■ああいう人工島は、神戸から見たら街の中なんですか、外なんですか。
中井■神戸の人間は、一本新しい川をはさんだ街ができたと、そういう見立てで楽しんでる感じですね。
磯崎■街中では、プラタナスなどの並木が、火事の延焼を食い止めたところが多かったとか。
中井■そうなんです。神戸は六甲山沿いに、小さな扇状地の集合なんです。六甲から海に向かって、小さい川や沢がたくさん流れてきている。地下水が豊富なんですね。プラタナスとか、街路樹が非常に大きく育つ。桜も水を好む木ですけど、非常に早く大きくなっています。
戦後、土管で埋めたりしたので、一見するとわかりませんけど、神戸の街を気をつけて歩けば、ひときわ緑が濃い木の列があって、ここは昔、川が流れていたんだな、地下水路があるんだなということがわかります。湊川なんかも、いまは埋めちゃって見えないんですが、少し高いところから木の緑の濃さを見れば、川の跡は一目瞭然にわかります。
磯崎■造園をやる人から教えられたんですが、明治時代には六甲山ははげ山だったとか。
中井■そうなんです。おそらく、はげ山になったのは製鉄先進地帯だったからでしょう。小さな山一つからとれる炭で、やっと日本刀一つ作れるというぐらい、木炭による製鉄というのは木が必要なんです。
以来ずうっとマツ山だったんですが、マツ枯れで千年に一度ぐらいの景観変化が起きちゃって、いまは照葉樹林の山になっています。
磯崎■松はもともと、荒れた、肥えてない土地に生えるものですね。
中井■白砂青松ですからね。
磯崎■照葉樹林は、むしろ肥えた土地に生える。ということは、もともと肥沃だったのか、あるいは山が肥沃になったのか。
中井■マツの死骸が、多少の肥やしになったかもしらんけど (笑)。
照葉樹林は、本当にみるみるもどってきたという感じですよ。10年かからなかった。照葉樹林のほうが暗くて陰々滅々ではあるけれど、四季の変化が多いですね。マツ山というのはいいけれども、住み慣れると、四季の変化の乏しさに少々飽きます。
磯崎■日本の山に入ると、よくまぁこれだけ針葉樹を植えてしまったと思うところが多いですね。
ある建設計画で、山を崩したあと、やっぱり景観をきれいにしないといけないというので、ハーバード大学のランドスケープの専門家を呼んで、一緒に見に行ってもらったんです。で、森を再生しよう、リ・フォレスティングというんですが、森をベースに街をつくり直そうと、そこは意見が一致した。で、具体的に詰めていったら、彼は「日本のスギ林がとてもきれいだから、是非そこにも植えよう」と。
ところが、スギ花粉の問題もあって、街の関係者は「スギは結構だから、照葉樹林にしてくれ」と。僕は中に立って、彼に日本の状況を説明して、アイデアを変えろと言うはめに陥ったことがあります。実際問題として、照葉樹林に近いかたちでつくろうという風潮にはなってきているんです。
たしかにある範囲できれいなスギ林があると、ビジュアルとしては非常に格好いいんですね。日本の照葉樹林のよさというのは、外から来た人にはなかなか理解できないかもしれません。
中井■実感として伝えるのが、難しいでしょうね。
スギ林で、僕がいちばん美しいと思ったのは、鎌倉のお寺の散在している辺り。鎌倉の海の明るさの光の名残りが、あの辺りに感じられて、「ああ、海辺にある比叡山だ」と。ギリシャ神殿の柱なんかを連想したぐらい、光が神々しくていいと思いました。同じスギ林でも、比叡山は暗いんですよ。
京都では、賀茂川が、高野川と合流するところに、糺ノ森という森があって、その先に下鴨神社があるわけですが、参道に近づいていくと照葉樹林がだんだん落葉樹林に変わっていって、中に清流が流れていて、心がほっとするところがある。どこまでデザインされたものかわかりませんけれども、実によく考えられているなあと思いました。
磯崎■そういう形で自然とでき上がった森とか、風水的な立地とかが、都市のフレームになっていけば、理想的だと思うんですけどね。
最近ある国際音楽祭のために、音楽家たちが集まれる芸術施設をつくるための場所探しで、中国地方の山間のひなびた村をいくつか見て歩いたんです。そうすると、だいたい周りは全部囲われていて、裏側は小高い山で、ふもとは今はもう耕されていない田んぼがある、そういうふところのような集落に、自然と行き着くわけです。
かつて我々の祖先が山から下がってきて、完全な平地まで行かずにちょうどその境目に住むところを探したのは、一つには、農耕的な視点もあったんじゃないか。原初の潅漑を、谷間とか、沢の辺りから開発していったんじゃないか。水利のいいそのエッジに住むことが日常生活の上でも重要だったし、また、後ろに山があって防御的でもある。風水なんかが中国から入ってくる前に、直感的にそういう場所を探していたのかなという気がしましたね。