――設立に当たってアメリカの研究所も研究されたというお話ですが。
佐伯■僕の頭にあったのはランド・コーポレーション型のポリシー・オリエンテッドなリサーチ・インスティテュート。野村の頭にあったのはスタンフォード・リサーチ・インスティテュート(SRI)。インダストリアル・オリエンテッドなリサーチ・インスティテュートですね。
最初は野村證券も財団法人としての研究機関を考えたんです。しかし、日本における財団法人としての研究機関を考えてみると、インフレで基金が目減りするんでなかなかうまくいかんのじゃないかと。引き続き野村からカネが投入できるようにするには、やっぱり株式会社でやらなきゃしょうがないと。三人から僕に話があったときはまだ財団法人的な構想なんですが、僕が行ったときには、株式会社でいくと。だから、株式会社でいけるような仕組みをつくらないといけない。そうすると、ランド型じゃなくてSRI型。ポリシー・オリエンテッドじやなくて、インダストリアル・オリエンテッドなリサーチ・インスティテュートを目指すことになるわけですね。それでも、最初野村総合研究所では相当ポリシー・オリエンテッドなリサーチをやったわけですよ。
――いまの野村総研の理事クラスの方にお話を聞きますと、佐伯さんの頃はよかったという話が聞かれますけどね。
佐伯■北裏さんが亡くなってから野村の方針が多少変わったということもありましょうね。僕はそのときは社長を辞めてましたからね。それでも、株式会社組織でそれなりの質の高い、おもしろいリサーチをやる方法はあると思うんですよ。
――野村総合研究所ができるのが一九六四年ですね。その後、七〇年前後に第一次シンクタンクブームがおきる。あの当時、日本ではメーカーが中央研究所をつくり、自前の技術開発をという議論が盛んだった時代です。一方ではアメリカのような社会科学調査、政策研究のソフトな研究の機運とニーズがかなり高まってきた時期なんでしょうね。第一次シンクタンクブームの背景には六〇年代の高度成長の達成感が政府、産業、国民を含めて新しいビジョンが必要になってきたことがあると思うんですが。
佐伯■ただ、野村総合研究所が設立されたころの空気は、日本全体にそういう認識があったというよりは、野村総合研究所ができてからみんなまねをしたという感じですよ。野村がやってみて多少うまくいってるようだから、それで三菱がやると。あれもやるから俺もやろう、というふうに出てきた。野村総合研究所の場合は、四〇周年記念事業として何をやるかを考えて、僕が入る前に相当準備をして、人を養成して、慎重に設立したと思うんです。三菱の場合はコンピューターのほうに相当実績がありましたから。だけど、三菱以降のは相当思いつきでやってるのが多いんじゃないかな(笑)。
――研究者のマネジメントについてはどうお考えでしたか。メーカーの研究所も、R&Dマネジメントが言われて、研究者の創造性と生産性が問われ始めた時代だったと思うんです。ソフト型の研究者のマネジメント、能力開発については。
佐伯■僕はあんまり難しく考えなかったですね。この人は優秀なリサーチャーであるか、伸びるリサーチャーであるかというのを見分けるのが大事であって、能力のない人はいくら後で教育しても伸びやしないんですよ。だから、優秀な人材が集まるような仕組みをつくること。次には、優秀な人材が能力を上げるのに必要な環境、機会を提供してやること。そのためにはアメリカに送って勉強させる必要もあるだろうし、それ以外のいろいろなチャンスの与えかたが必要。この二つで、それ以外のことは…。
まあ、人事評価の仕組みというのもあるけれども、だれがいい業績を上げているかは、上から見てるとおのずからわかりますよ。アメリカの研究所では非常にシステマティックにやっていますけれども、僕自身はそれについて努力したことはないですね。