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次世代型シンクタンクの条件

■インタビュー■
満鉄から。(2)


神の見えざる手を把握できない人間

――ところで戦時軽済の骨格をなす物資動員計画の方法論というのはどんなものだったんですか。

佐伯■ソ連型の計画経済ですよ。宮崎正義という人がロシア側の勉強をして持ち込んだんだとも言われています。国民所得、あるいは国民総生産という概念はなくて、物資別に原単位計算をやって生産量計画を立てるわけです。例えば鉄であったら、鉄鉱石と石炭をどれだけ持ってくれば銑鉄がどれだけできて、銑鉄がどれだけできれば圧延鋼材はどれだけできるというような全体の計算をやるわけですね。その生産量を、政府と民間にどう分けるか、陸海軍にどう分けるか、産業別にどう分けるかと。要するに物資別の生産力拡充計画というのを立てて、それに基づく生産を基礎にして物資の配当計画を決めるわけです。その決めたとおりに計画を実施していく。実際問題としてはそのとおり実施できなかった。

――実施できなかったことの大きな理由は何ですか。

佐伯■それは、神の見えぎる手というものを人間が完全に把握できなかったということでしょうね。

 例えば鉄で言えば、我々は鋼材一本と立てるんですよ。ところが、実際は品種サイズ別に生産が進められるわけですから、我々が立てる鋼材一本の計画を品種サイズ別に分けていく段階で勝手なことができるわけですよ。その当時は製鉄所には陸軍と海軍の監督官がそれぞれいて、その監督官が自分の欲しい方向に持っていくという形になっていたようですね。

――亡くなられた、賀屋輿宣さんが、戦時経済、統制経済というのはどうやってもだめなんだ、とおっしゃっていたことがあります。計画屋として計画に対する無力感はあったのですか。

佐伯■価格による需給調整というのは、神の見えぎる手による調整なんですね。それを人間の頭で置き換えることはできないということですよ。我々は、昭和二十四年にドッジラインを導入し、統制を完全に外して為替を一ドル三六〇円に一本化したとき、価格による需給調整が我々の立てる計画に比べていかにすぐれたものであるかを痛感したんですね。あの当時、一挙安定という議論に対して我々は中間安定と言ったんです。一遍に物価を安定させる措置をとるんじゃなくて、徐々に調整すべきだと。それを、ドッジの言うとおりにやってみて、結局ドッジが正しかったということを思い知らされた。あの当時、統制経済にタッチした人はみんなが感じたんじゃないですかね。ただ僕は、戦後も財政金融のほうじゃなくて、あくまで物資動員のほうですから。要するに傾斜生産方式。

――傾斜生産方式は成功したと言われてますよね。鉄鋼生産と石炭の増産を中心にして経済のサイクルをつくり直そうと。復興期の重工業シフトには、計画型の経済がうまくいくということなんでしょうね。

佐伯■いまの言葉で言うと開発独裁というか、政府の計画によってある段階までは重点的な政策の実施ができるけれども、その段階を過ぎれば政府の手に負えないということなんだと思うね。

――ソ連の経済問題も基本的にそういう感じがしますね。経済安定本部型の、つまり統制型・計画型の戦後復興計画をするところにいらっしゃって、その政策手法の転換もご経験された。

佐伯■あの当時、ゾチアル・マルクト・ビルトシャフトというドイツ語があって、社会主義的市場経済じゃなくて社会的市場経済ということが言われていた。計画性は市場経済に導入すべきだけれども、計画経済と市場経済というふうに分けて考えれば、計画経済ではだめで、市場経済のほうだと。社会的公正の枠組みの中での市場経済であり、市場経済を前提にするが計画性をある程度導入しないとだめだと、そういう考え方ですね。

――それ以降、日本は一貫してそれでやってきたわけですね。その後、昭和二十八年に保安庁へ出向なさいますね。警察予備隊ができるのは朝鮮戦争の後でしたっけ。

佐伯■そうですね。そのころ僕は、経済審議庁の計画一課長と計画二課長を兼務していたわけですよ。計画一課のほうは経済自立計画、日本経済復興の長期計画を担当していた。二課長としては朝鮮特需をやっていた。朝鮮特需をやることから防衛問題の研究に入っていったんです。勉強せざるを得なかったんですよ。

――それがきっかけで保安庁に行かれたんですか。

佐伯■当時、保安庁で保安研修所(現在の防衛研究所)をつくって、主任研究員のトップになる人を探していて、経済と防衛がわかる人間として、僕のところに話が来た。

 僕は二度断って、三度目に引き受けました。長期計画を何度も何度もやって相当マンネリズムになってるし、うるさい新聞記者との付き合いから離れて、ゆっくり研究でもやるかと。それに、日本経済の復興に必要な資源が防衛予算のほうへ持っていかれるんじゃないかという危惧があり、計画一課で密かに作業して国民所得の三%ぐらいが適当なんじゃないかという数字を計算していたんですよ。経団連の防衛生産委員会では、五%なんて言っていた。そこで「いっそ行ってやってみるかな」という気になった。

 行ってみたら、大蔵省や、占領軍の経済科学局のほうは、日本が軍備を持つ場合には国民所得の三%程度は要るだろうというので、防衛費プラス安全保障諸費というリザープを入れて三%ぐらいの枠をとってるんですね。向井さんが大蔵大臣になったとき、財源に困って安全保障諸費を取り崩して、防衛費は二%台に落ちました。ところが、安全保障諸費をはずした二%の枠も使い切れなくて、防衛費を横ばいにしたこともある。横ばいにしたけれども、結局、その当時の社会的な条件、例えば、演習場をつくろうとしても買収できないとか、人を集めようとしても人が集まらないとか、どうせ使えないんですよ。経済成長率は予想以上に高くなっていき、結果的に防衛費は国民所得の二%以下に落ちていた。

 だから、日本の防衛費が日本の経済の復興を妨げることを心配する必要はなくて、いかにして日本に必要な防衛体制を確立するか、どういう防衛体制が日本に必要なのかを研究しないといけない。最初は経済と防衛の問題の関係を主として担当する形で行ったんだけれども、だんだん防衛問題全部に首を突っ込んでいく形になったんですよ。

――その後、野村総研に移られる。

佐伯■防衛研修所の所長になって、満五十歳のとき、野村證券の北裏さんから話があった。奥村さんと瀬川さんと北裏さんと三人が僕を呼んで、「今度野村證券の四〇周年の記念事業として新しい研究所をつくりたい、それの所長で来てくれないか」という話があった。

 僕も五十にして天命を知るという心境にもあったし、ぽつぽつ行き先を考えなきゃいかんのかなと考えておったときだったものですからね。日本にこれまでないような新しい研究機関をつくりたいという話だったので、「そういう研究所をつくるには非常にカネがかかるが大丈夫か?」という話をしたら、それは大丈夫だということだったので、「それじゃあやりましょう」ということで行くことになったわけですよ。


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