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次世代型シンクタンクの条件

■インタビュー■
満鉄から。(1)

佐伯喜一■Kiichi Saeki
●聞き手 桂木行人(本誌)■Yukuto Katsuragi



今日、国際政治から社会生活の環境まで、大きな変化に見舞われる中で、この変動を乗り切る新しいビジョンと知恵が求められている。
シンクタンク――四半世紀をすぎたいま、この言葉は、往時の輝きを持っていないかのようである。
わが国の土壌にはなじまなかったのか。官僚組織という巨大なシンクタンク機能の前で、拮抗力と役割を発揮できなかったのか…。
しかし、インターディシプリナリーな思考媒体としてシンクタンクに夢を馳せる人々は多い。
一方、新しい知の生成装置として、ネットワークの中で生成するソフトな組織の可能性が語られ始めている。
ならば、固定化された組織を持たないバーチャルなシンクタンクがある得るのではないだろうか。
『幕張アーバニスト』は次世代シンクタンクのひとつとして、ネットワーク型シンクタンクの可能性の検証を始めたい。そのためには、現在のシンクタンクがおかれている状況を知る必要がある。
以下の二つの対話は、日本のシンクタンクに賭けられた方々の貴重な証言である。




――佐伯さんの経歴を拝見いたしますと、戦前の満鉄、企画院、さらに戦後は、経済安定本部、経済審議庁(経済企画庁の前身)と日本の経済政策の中心を歩まれていらっしゃいます。しかも、時代がら、統制経済、計画経済を中心に政策形成に携わったご経験をお持ちだと思います。いまや、自由化、規制緩和が大合唱されておりますが、まず、当時のご経験をお伺いできますか。

佐伯■昭和十一年に大学を卒業して、満鉄の地方部へ行ったわけです。地方部は満鉄の付属地行政をやっていた。ところが行ってすぐ、付属地行政権を満州国に返すことになって、地方部は解散して、僕は入社早々だったから満鉄に残るか、満州重工業に行くか、北支那開発に行くか、自由意思に任せるというので、満州重工業へ行くという選択をしたんです。その満州重工業が東辺道開発会社という子会社をつくり、東辺道にある未開発の石炭資源と鉄鋼資源を使って、それで製鉄をやる、総合開発の計画を進めていた。それに、当時の企画院から横やりが来たんです。そこの資源を勝手に東辺道で製鉄するのはいかん、鞍山にある昭和製鋼所のほうへ移せと。満州国と関東軍と日本の企画院の間の連携が十分に取れてなく、日本政府の物資動員計画の中に、東辺道の製鉄計画は組み込まれていなかったんです。それで、僕は昭和十四年に東辺道開発会社に籍を置いたまま、物資動員計画の勉強のために企画院の嘱託になったんです。

――企画院はどこにあったんですか。

佐伯■大手町。物資動員計画の勉強を二年間でやることになっていたんですが、その間に企画院事件が起こって、稲葉秀三さんなんかが追放されて人手が足りなくなった。そこで、残れという命令で、満州重工業との関係を切って、昭和十七年の三月に企画院の調査官になった。

 その昭和十七年の秋に、ガダルカナルに兵力増強をやるかやらないかで、企画院と陸軍と海軍と商工省とが集まって、大議論になったんです。参謀本部の考えているとおりにガダルカナルに兵力増強をすれば、兵力増強のために多くの船腹をとられるわけです。すると、日本へ運び込む石炭、鉄鉱石の量が減るから、鋼材の生産量が四〇〇万トンを切る。そういう計算を僕なんかはやらされたわけです。鋼鉄の生産量が四〇〇万トンを切った場合にはもう日本が長期に戦争する能力はなくなる。それでも参謀本部は兵力増強をやれというし、陸軍省の整備局のほうはやるべきじゃないという意見だった。企画院も商工省も、兵力増強をやめて鉄の生産四〇〇万トンは維持すべきだと。一週間後に決着がついて、企画院と陸軍省の整備局の意見が勝ったんですよね。

 その時点で、日本の国力の限界が来たということを僕なんかは思い知ったわけです。僕らが立てていた物資動員計画が、計画通りに事は進んでいなくてペーパープランになってきているということも、はっきりしてきたわけです。その時満州へ帰ってこいという話があったので、日本は戦争に敗けるかもしれないが、やるだけのことをやって敗けたのなら仕方がないと。企画院でペーパープランをつくっているよりも、満州へ帰って鉄を一トンでもよけいつくったほうがいいんじゃないかということで、十八年三月に満州に帰ったんですよ。

 その後、製鉄合同があり、満州製鉄東辺道支社の業務課長になりました。終戦直前に、鞍山の熔鉱炉を爆撃から守るために、四基、東辺道へ移す光建設工事の計画主任を僕が仰せつかって、満州国と関東軍との間の交渉をやっていたわけです。そうしているうちに、二十年の八月十三日にソ連軍が入ってきたんです。終戦後、二十一年十一月に帰国して、稲葉さんの国民経済研究協会の仕事を手伝っていて、その後安定本部へ入って経済復興計画にタッチしていったんですよ。


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