幕張新都心形成史

メタモルフォーゼ幕張

1945-70年代1980年代1990年代2000年代



浮島の駅から海上都市へ

東京湾から見る幕張新都心はまるで海上都市のようだ。
かつて浅瀬の干潟で「浮島の駅」と呼ばれたこの地は、いまや年間2千万が訪れる国際業務都市として生まれ変わった。総面積522ha、就業予定人口15万人、居住予定人口2万6千人。わが国最大規模の新都心は、業務研究、教育文化、商業、住宅などの諸機能が計画的に配され、環境デザインの描き出す街並みは、これまでの日本にない〈新しい都市〉を予感させる。将来、マリン・リゾート施設など、ウォーターフロントとしての機能も加わることによって、さらに多様な人々が幕張をめざすだろう。
驚異的な幕張の〈変身(メタモルフォーゼ)〉を振り返る。


1945(昭和20年) ●始まりは食料増産から
東京湾に残された数少ない臨海部の埋め立ては戦後すぐに始まる。1945年、政府は食料増産のための緊急開拓事業のひとつとして幕張の埋め立てを閣議決定。その後、事業目的は中小工場用地造成に変更され、1964年、60haの造成が完成した。

1967(昭和42年) ●海浜ニュータウン計画を発表
都心部から30km圏、広大な埋め立ての可能な稲毛、検見川、幕張に計画人口24万人の海浜ニュータウン建設が計画された。経済発展と急速な首都近郊のスプロール化に対して都市を計画的に誘導し、良好な住宅地として整備することをめざした。

1973(昭和48年) ●海浜ニュータウン幕張地区埋め立て着工

1975(昭和50年) ●「幕張新都心(A地区)基本計画」を発表
業務中枢機能の東京一極集中に歯止めをかけることを目的に、住宅中心の土地利用計画を大幅に見直し、業務機能をもつ新都心を建設することを決定。現在の幕張新都心を構成する業務研究・タウンセンター・住宅・海浜公園などの要素も出そろう。

幕張新都心の最初のマスタープラン 幕張新都心の最初のマスタープラン

1976(昭和51年) ●「学園のまち」構想を発表
1976年の「千葉県新総合五ケ年計画」は、千葉圏内における進学率の上昇、学生数の増加に対応して幕張新都心に教育文化機能を充実させる「学園のまち」構想を示した。早稲田大学の幕張移転計画構想は断念されたが、81年より順次、県立衛生短期大学、放送大学、神田外語大学など大学3校、高校6校、海外職業訓練協力センターなど6つの文化・教育施設が文教地区を形成した。

1976年の幕張 1976年の幕張。
埋め立て開始から3年、全体の輪郭が見えてきた。
手前の埋立地は稲毛、検見川。

1978(昭和53年) ●成田に新東京国際空港開港

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